『ぐりとぐら』という絵本を目にされたことがあろう。この絵本の挿画を担当したイラストレーターの山脇百合子(やまわき・ゆりこ)氏が9月29日亡くなられ、訃報が伝えられた。享年80歳だったという。この本が出版されたのは1963年だというから、すでに60年近い歳月を経たことになる。「ぐり ぐら ぐり ぐら/ぼくらの なまえは ぐりとぐら/このよで いちばん すきなのは/おりょうりすること たべること/ぐり ぐら ぐり ぐら」という具合に、中川李枝子氏のリズムあふれる軽妙な文章に、ぴたりとしたかわいい絵柄が添えられた絵本である。
物語は、こう展開する。料理好きの二匹の野ネズミが、森に食材さがしに出かける。木の実、くりやどんぐりを見つけるが、そこにとてつもなく大きなたまごが落ちている。「大きな目玉焼きを作れる、オムレツができる、いややっぱり大きなカステラを作ろう」、と大喜びするが、持って帰ろうとしても大きすぎ、重すぎて、どうやっても家に持って帰れない。そこで二匹は、たまごの落ちているその場所に、フライパンやボール等の料理機材やミルクや砂糖の調味料を持ってきて、野外調理をすることにした。するとカステラの焼けるいい匂いにつられて、たくさんの森の動物たちがそこに集まって来る。「カステラづくりのぐりとぐら、けちじゃないよぐりとぐら、ごちそうするからまっていて」。そしてすべての森の動物が、焼き立てのカステラをふるまわれて、舌鼓を打つ、というあらすじ。
たわいもない話のようだが、もしその巨大なたまごを、二匹が家に持ち帰れたなら、ドラマは生まれない。「運べない」、つまり「自分の力ではどうにもならなかった」から、自分の方からそこにやって来て、料理するしかなかった。そしてそのおかげで、森のすべての動物が、おいしいカステラを、皆でお腹一杯、好きなだけ食べることができた、というのである。体の小さい子は、小さな塊を、ぞうは大きな塊を、それぞれ身の丈に合った大きさのカステラを食べたのである。「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も、足りないことはなく」(出エジプト記16章18節)、そして後に残ったのは、大きなたまごの殻、二匹はそれを使って…。ひとつ疑問に思うのは、そもそも落ちていたあの巨大のたまご、一体だれが、何のために落としていったのか、ということである。
今日は「世界祈祷日2022」礼拝である。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」というテーマで、「イングランド、ウェールズ、北アイルランド」に生きる女性たちのメッセージを聴くことで、祈りを共にする。いわゆる「イギリス」という国は、地形的にはヨーロッパの一部地域であり、近代の幕開け、大航海時代には、大げさに言えば全世界を制覇した国である。世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、広大な植民地を経営し、過酷な奴隷貿易を行い、巨万の富を獲得した歴史を持つ。今、そんなイギリスの抱える現実と課題は、二つの言葉で言い表すことができるという。”Diversity(多様性)”と”Imigration(移民)”という二つの言葉である。さまざまな出身、出自、言語、文化、生活スタイルの背景、即ち多様なルーツを持つ人々、それも二世、三世が、国民としてそこに生きており、日々入り混じって暮らしている。このような状況をグローバリゼーション(国際化)と呼ぶが、この波は、今や世界中に広がり、もはや、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、ラテンアメリカという世界の区分は、意味がないと言えるような状況が、イギリスには早い時期から顕著に現れているのである。このような現実から、どういう問題、課題が表出しているのか。
先ほど三人の女性達の声を聞いた。「わたしは貧しい生活を送っています。子どもたちがお腹をすかせることがないよう、いつも食べ物を求めています」という声、「わたしはおびえながら暮らしています。パートナーからの身体的、精神的、性的暴力により、恐れの中を生きています」という声。「わたしは寂しさの中で生きています。年齢、障がい、人種、セクシュアリティにより、孤独な生活を送っています」という声、「窮乏(貧困)、暴力、孤独」を訴えるこれらの切実な声は、イギリスの人々だけではなく、今、現在、どこの国にもあふれている痛みでありうめきであり、嘆きの声なのである。ここ日本でも、至る所で同じ呻きと嘆き、痛みの声が、毎日発せられているではないか。そしてあなたも、私自身も、同じ事柄に関わって悩み呻くのである。
この世には「貧困、暴力、孤独」という深刻な現実がある。それらは自分の力ではどうにもならない、持ち運ぶことができない、いかんともしがたい現実、と言えるものが、当り前の顔をして、この世には存在する。それを運命だ、宿命だ、はては自己責任だ、努力不足だ、自業自得だと情け容赦なく言いつのるのが、この世の人間なのである。確かに「神も仏もあるものか」というひと言でかたずけられてしまうような世界の有様である。
「運命」だから「どうしようもない」、と私たちはしばしば考える。ところが旧約の預言者、涙の預言者と呼ばれるエレミヤは、敗戦によって国が崩壊し、祖国を追われ、バビロンに捕らえられ、異国に暮らさざるを得なくなったユダの人々に、こう神の言葉を告げるのである。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」。敗戦が、国の滅亡が、そしてバビロン捕囚が「神の計画」なのだという。捕囚によってもたらされた「窮乏、暴力、孤独」が、神の計画の中からの出来事なのだという。さらに「それは平和の計画であって、災いの計画ではない」という。神の計画は、罪ある人間に、その罪の重い責任を取らせて、処罰するというものではない。預言者は「バビロン捕囚」の出来事は、ユダの罪ゆえに、即ち、神のみ言葉に耳を傾けず、人間の計算、計画にひたすら頼ろうとしたことの帰結であった。とかく人間の計算は帳尻が合わず、計画は当てが外れる。しかし神の計画は、そのように「災い」がもたらされて、それでお終いになるのではなく、そこから「平和」がもたらされる計画だというのである。その計画の途上で、嘆きや呻き、痛みや悲しみを人は味わう、しかしそれで終わりになる計画ではないのである。
『ぐりとぐら』では、最後に自分たちの力では動かせなかった、「巨大なたまご」の、料理後に残った殻がどうなったのかが、語られる。二匹はその殻を使って、自分たちの乗る車を作り、それに料理機材の一切を載せ、それに乗って自分の家に帰るのである。動かすことも引っ張ることも、どうにもならなかった事柄が、自分たちばかりか、森のみんなのお腹を養い、ついには自分たちを運んで連れ帰ってくれるものに変わった、というのである。
神の呪いのしるしである十字架に釘付けられ、血を流し、亡くなられるという神の子の悲惨によって、私たちの救いの道は開かれ、復活の命がほとばしり出たのである。最も唾棄すべき、忌み嫌われる十字架への道は、実に神の計画の表れであった。捕囚によってもたらされた「窮乏、暴力、孤独」から生まれ、引き出される救いの出来事が確かにある。神は決して無関心ではない、その計画をみ心にしっかりと留められていることを、覚えたい。