「暑さ寒さも彼岸まで」、と言われるようにようやく秋が到来した風情である。辺りが涼しくなると、木々の葉も色あせて来るように感じられ、もの悲しさも感じる季節である。
「惻隠の情」という言葉がある。中国の思想家、孟子の『性善説』(最近、旗色が悪い)に出てくる言葉という。「惻」も「隠」も「悲しむ、心痛む、哀れに思う」、という意味とされ、『孟子』によれば、その心は誰にでもあるもので、それを拡げて行けば、「仁(人と人との最も望ましい関係)」につながるとする。丁度こんな譬で説明される。「まだ幼い子どもがよろよろと歩いていて井戸に落ちそうになっている時に、思わず走り寄って手を伸ばして助けてしまうという状況。この子を助けたら、後から親に感謝されるだろうとか、もし助けなかったら周りの人から後で『非人情だ、冷たい』と悪様に言われるかもしれないとか、そういう姑息な計算ずくで行動をするより先に、思わず手が出てしまっていた」、という具合である。何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本であるという。肝心なのは、人間一般、人類の普遍の理想や大義名分とかでなしに、自分の目の前にいる一人の人、それが困窮し、傷んでいたら、この私はどうするか、なのである。
最近、ある対談録の中で永井陽右氏の語る言葉を読んだ。氏はNGO「アクセプト・インターナショナル代表理事」で、過去、主にソマリアやイエメン、パレスチナなどの紛争地にて、所謂テロ組織などの武装勢力からの離脱の促進や、投降兵や逮捕者、戦争捕虜などの脱過激化と社会復帰支援、和解に向けた対話などの働きに携わって来られた。聞き手は「ひさしぶりに『青年』というものに出会った気がした」と評している。
「私は仕事としてテロ組織から降参した人のケアや社会復帰の支援などをやってきました。しかし、国際支援の分野での対象者や対象地に関する偏りがどうも気になっていて。難民だとか子どもだとかそういう問題になると情動的な共感が生まれるのに対して、『大人で元テロリストで人殺しちゃいました』とかだと、それがまるで真逆になる。抱えている問題が同じだとしても、『なんでそいつまだ生きてるんですか?』て話になってしまう。そこが問題意識としてもともとありました。私が思うのは……たとえば学校の休み時間に、『よっしゃ遊びに行こうぜ!』って言っている人がいる一方で、『私たちはおしゃべりしましょうね』って言ってる人もいるとします。そのときは、みんなが自由意志に基づいて行動しているわけですよ。
でも、その教室のなかでポツンとひとりぼっちになってしまう人がいた場合、それって誰の責任なんだろう? と思うんです。そのひとりぼっちの人が『一人は寂しい。寂しいけど誰にも言えない』と感じていたら、それは問題だと思うんです。じゃあその問題の解決って、誰がやるべきなんだろう? と考えてしまう。みんなが『共感しない自由』があるなかで、問題がぽつんと起きてしまったとき、どうすればいいのかな、と思って」(『共感にあらがえ』2022.8.14「内田樹の研究室」)。
今日はヤコブ書に目を向ける。この書物は宗教改革者マルティン・ルターが「藁の書」と呼んだことで、ある意味その評価が定着してしまったきらいがある。「藁」、クリスマスの飼い葉桶の中に、主イエスのお姿が見られない、ただそこに見えるのは不毛な「藁」ばかりである、と断じたのである。自分の翻訳したドイツ語聖書に、最初はこの手紙を削除しようとさえした。とにかく彼はこの書物が嫌いだった。
当時のカトリック教会は、神の救いは「信仰と行い」とによると教えていた。「心と口と行いといのち」、神の救いは、人のすべてに関わる、これは正論であるが、ルターは納得がいかなかった。自分は修道士として、そういわれてストイックにあらゆることに精進をした、しかし頑張っても頑張っても、救いの喜びは生まれてこない。どういう訳か。そこから彼は、宗教改革のスローガンとして、「信仰のみ(ソラ・フィデー)」と主張する。救われるのは人間の行いではない、ただ信仰のみによる。新約の主だった手紙の著者、使徒パウロの主張を、復興・再発見したのである。
ところがヤコブの手紙はこう語るのである。今日の聖書個所、14節以下に、非常にはっきりと、明快にそれが語られている。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。「行いが伴わないなら、信仰は死んでいる」。こうはっきり言われては、「信仰のみ」と喝破したルターも、さすがに「おかんむり」という訳である。
しかし最近の聖書学者はヤコブ書について次のように評する。「古代の文書であそこまで厳しくものを言い得た人の手になる文書が存在するということは、現代人にとっても貴重な財産である」(田川健三)。これでお分かりのように、ヤコブの手紙は、最近、学問的に非常に再評価されている文書なのである。そして今日の個所は、その「らしさ」が如実に表れている。
例えば6節「あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか」。人は金持ちや権力者たちをちやほやちやほやするけれど、裁判でも、商売でも、世渡りでも、酷い目に会わされるのは、いつも一般庶民ではないか。それでいて皆、彼らにへこへこしているのはどういう訳か。こういう言葉が、紀元1世紀の書物に記されている事実をどう感じるか。
9節に「人を分け隔てする」という言葉が見える。この個所のキーワードであるが、かつての翻訳は「えこひいき」「かたよりみる」と訳されていた。2章の冒頭に非常に具体的な譬えが語られる。2節「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言う」。
ここまで露骨な差別が、そのまま教会内で繰り広げられていたとは想像したくないが、まるで目に見えるように語られている。教会の中に身なりの良い金持ちと、みすぼらしい身なりの貧しい人がいる。これらの人々に対して接する態度が全く違う、これをどう考えるか、と問いかけている。ヤコブ書は、事柄の是非やその問題点をはっきりさせるために、あえて極端、ストレートでメリハリの利いた論調をしているのである。そうでもしないと滑らかに通り過ぎてしまう現実がある。
ヤコブ書を「信仰か、行いか」の二者択一の書と見なすこと、これは非常に偏狭な見方であろう。丁度、ポピュリストが「敵か味方か、善か悪か、加害者か被害者か、国民か外国人か、あなたはどちらか」と間合いを詰めて迫るように、これは人の心を袋小路に追いやる悪意が二者択一の問いにはあるだろう。しかし、この手紙は、かなり熱い思いのほとばしりで訴える叫びに満ちていても、「善か悪か」、「正義か不正義か」というような観点で宗教議論をしているのではない。もう一度繰り返し目を留めよう、2節「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら」、「ぽつんと一人座っている友にどうするか」、何が問題か、あなた自身の今、この時の姿勢ではないか。
永井氏はさらにこう語る、「ソマリアは当時、『比類なき人類の悲劇』だと言われていたんですが、同時に『地球で一番危険な場所』とも言われていました。なので特に日本なんかではほとんどの大人たちがソマリアなんて無理となっていて、『英語話せるようになれ、専門知識つけろ、10年は経験積め』なんてことを話を聞きに行った大人たちに言われていたんです。それはたしかにそうなのかもしれない。でも、じゃあ『自分はその10年間どの面下げてソマリアを見ていればいいんだ』と思った。そもそもそれらを持ってる大人たちが危険だの金がおりないだのでやらないわけですし。なので、結局問われているのは姿勢だなと考えるに至りました」。
主イエスは、自分のもとにやってきた人、その多くは病に悩み、悪霊に憑かれ、飢え渇いていた人々であるが、そのひとり一人に「何をしてほしいのか」と声を掛けられた。目の前にいるひとりの人が大切であったのである。「憐れみは裁きに打ち勝つのです」ときっぱりとした言葉でもって、今日のみ言葉は閉じられる。これは主イエスの生涯、その人生の歩みがなんであったかを、ひと言で語る言葉である。「正しさ、正義」を掲げて、人を追い詰め。追い出し、人の生命を奪おうとするやり方が。さまざまな国で当然の如く行われている。主イエスもまた、「正義」の名によって十字架に付けられ殺されていった。しかし主イエスが目の前のひとりに語られたみ言葉、そこでなされた癒しは、その死によっても失われず、新しい命として息づいて行った。「憐みは、愛は、裁きに打ち勝つ」、これこそ主イエスの生涯の姿、生の姿勢であろう。その姿を私たちは心に刻むのである。