祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書20章9~26節

皆さんは、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌『待ちぼうけ』をご存知か。「待ちぼうけ、待ちぼうけ/ある日せっせと、野良稼ぎ/そこに兔(うさぎ)がとんで出て/ころりころげた 木の根っこ」。ユーモラスな物語だが、この詩には元ネタがあるようだ。中国の法家の思想書の一つ『韓非子五蠹篇』の中にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと)」、「くひぜをまもりてうさぎをまつ」から録られたものであるという。説話の内容は、昔、宋にある農民がいた。彼が日頃耕している畑の隅に切り株があり、ある時、そこにうさぎがぶつかり、首の骨を折って死んだ。何も努力しないで捕らえた獲物を持ち帰って、ごちそうを食べた百姓は、それに味をしめ、次の日からは何もしないで、またうさぎがぶつからないかと待っていたが、二度と来なかった。耕さなかったために作物は実らず、百姓は国の笑いものになった、という。白秋の歌ではこう閉じられる「待ちぼうけ、待ちぼうけ/もとは涼しい黍畑/いまは荒野(あれの)の箒草(はうきぐさ)/寒い北風木のねっこ」。

よく手入れされた農地は、美しいものだ。この国は山がちだから、山野辺を耕して、石垣を積んで造られた棚田は見事である。聖書の世界ならば、美しい農地とは、まず第一に「ぶどう畑」であったろう。しかし折角、人間が苦労して開墾した「田畑」も、放っておけばたちまち荒れ果てる。それが自然の成り行きというものだ、と言ってしまえば元も子もないが、田畑の美しさとは、実は人間の労働、額に汗の結晶なのである。農地を耕し、手入れし、収穫を手にする農夫にとって、自分の田畑に対する思い入れは、何にも代えがたいものだろう。良い農地は、一朝一夕にできるものではない。何世代にもわたって耕し続け、世代を超えて世話を焼き、そのたゆまぬ働きの末に、収穫はなされるのである。

農民にとって、「農地」は単に「モノ」や「工場」ではなく、自分の「アイデンティティ」あるいは「誇り」、もっと言えば「生命」なのである。だから旧約の律法でも、困窮の為、やむを得ず土地を手放したとしても、50年目には無償で元の持ち主に戻される、と規定されている。レビ記25章にこう記される「この日,雄羊の角のラッパが全国に響き渡り,それを合図に民は自由を得,奴隷も解放され,おのおのの故郷へと帰ってゆく。土地はもとの所有者に戻される」。

今日はルカ福音書の「ぶどう園と農夫」の喩えから話をする。こんな小さな話からも、当時のパレスチナの農業事情が、リアルに物語られていることが分かる。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出た」。この「農夫」という言葉は、自営の土地持ちではなく「小作人」を意味する。当時の農民は、飢饉が起こり、収穫を得られなければ、多額の借金をして暮らさざるを得なかった。そして飢饉が一年で終わらず、翌年までも続けば、借金のカタに土地を手放し、小作人になる他ない。その土地を、わずかな金で手に入れるのは、エルサレムやローマに住む金持ち貴族である。「長い旅に出た」とは、自分の自宅に帰った、ということである。そのぶどう園に雇われた小作人は、もともと自分が丹精した畑だったところを、雀の涙程の賃金と引き換えに働くのである。働きながらも、複雑な心境があっただろう。ここは先祖代々、自分の家の畑だった、本来、ここは俺のものだ。

収穫の時が来て、主人は、僕を遣わして「収穫の上代」を受け取ろうとする。ところが小作人たちは、これを拒絶し、その僕を袋叩きにし、空手で帰らせた。これが何回か続きさらに「愛する子なら」敬い、受け入れてくれるだろう、と主人が目論見んで、跡取り息子が送られる。息子の度胸試し、あるいは経営管理実習という意味合いもあるだろう。すると小作人たちが口々に言う。「これは跡取りだ、こいつがいなくなれば、ぶどう園は自分たちのものだ」。所有者不明の畑が数年間、そのまま放置されて、裁判で正式に訴えもなされなければ、そこを実質的に耕している者の所有となる。しかし大抵はそうは問屋が卸さない。主人(経営者)は腕っぷしの強いもんを大勢連れて戻り、反逆した小作人たちをことごとく粛正するだろう。

確かにこの農夫たちの振る舞いは、違法行為であり、重大な犯罪である。他方、ぶどう園の主人は、法に基づいて借金のかたにぶどう畑を取得し、この世の当然の手法を用いて経営しているだけである。非は農夫たちにある、とはいうものの、すっきりと納得できないのは、今もこの世界に、この譬えのような現実に向き合わざるを得ない人々が、たくさんいるからだろう。

ここにルカだけが記している言葉がある。16節「そんなことがあってはなりません」、皆はこの言葉をどう読むだろうか。浅はかな感情で、主人に逆らい、その跡取りを殺し、土地を取り戻そうとした小作人たちの、愚かなふるまいに対してか。それとも権力ある主人の、情け容赦ない報復の姿にか。この主イエスの譬話を聞いたルカは、ここで語られている出来事の深刻さ、リアルさ、嘆きや不条理、割り切れなさに耐えらず、いささか感情的にこのセリフを付け加えたのかもしれない。経営者と労働者が確執によって相争い、まだ若い経営者の息子が、その犠牲となる。本来、この世界にこんな事件はあるべきことではない。ルカの良心の発露かもしれない。

この譬えには「土地」を巡る、根源的な問いが潜んでいる。それは「土地は誰のものか」という問いである。否、「土地」ばかりではない。人間は、自分のために利益をもたらしてくれる世界のすべてのものを、自分の所有として、自分の思い通りにしようとする。しかし、この世界は、ひとつ残らず神の創りたもうた被造物である。だからそこから得られる収穫も、果実も、善きものもすべては神の恵みであって、有難く皆と共にいただくものではないのか。賜物を独り占めして、自分だけの利益とすることは、恵みに最もふさわしくない。恵みは分かち合ってこそ、さらに豊かに膨らんでいくであろう。

ロシアの民話に、『人にはどれくらいの土地が必要か』という話がある。欲張って、できる限り広大な土地を自分のものにしようとして、一日中、走り回ったその挙句、倒れて息絶えた者を、私たちは笑うことはできないだろう。神の恵みを、恵みと思わない者は、折角、神の与えた善きものを踏みにじり、外に投げ捨てるのである。それで本当においしいぶどう酒ができるであろうか。ひどく苦い酒が出来そうだ。