主のご降誕を祝うクリスマスには、マリアとヨセフ、そして幼子の主イエスを描いた「聖家族」の絵画が、ここかしこに飾られる。スペインのバルセロナで、1882年から建築が続けられているサグラダ・ファミリア教会は、マリア、ヨセフ、そして主イエスら「聖家族」を記念する建物なのである。21 世紀に入っても、完成まであと200年はかかるだろうと言われていたが、結局、紆余曲折はありながらも、建築資金を公に募りながら、断続的に建設が続けられてきたという経緯がある。
そんな中、転機となったのはグローバル化による観光客の爆発的な増加による入場収入であった。既にそれは建設資金の全てを蓄えたとも言われる程の潤沢な予算をもたらしてくれたと言われている。現在、設計者ガウディの没後100年に当たる2026年の完成を目指しているが、ここ数年のコロナ禍で、厳しい見通しとも伝えられている。バルセロナっ子の口癖、「神様はお急ぎにならない」は、いまも健在であるだろう。
神殿や寺社仏閣の建設には、完成までの長い時間がつきものである。人間を超越する神仏に献げるという大義名分があるので、やっつけ仕事はできないということか、完成までに数百年の時を要することも、珍しくはない。最初に造られた部分がすでに老朽化し、それを修理しつつ、新しい部分を建築するという、いささか頭をひねりたくなる状況も生じるようだ。
主イエスご自身が、その目でご覧になったエルサレム神殿は、別名「ヘロデ神殿」とも呼ばれ、およそ500年前、バビロン捕囚からの解放後に、総督ゼルバベルによって再建された神殿(第二神殿)を、ヘロデ大王が増改築、改修築したものであった。インフラ整備に長けていたヘロデは、ユダヤ人の王であり続けるための手段の一つとして、BC20年頃から、見すぼらしかった神殿の大改修工事を手がける。外構施設の規模を広げ、神殿の壁面を地中海産の大理石で装い、また城壁には金をかぶせ、極めて豪奢な外観に仕上げた。大王の死後も大改修工事は続けられ、完成はAD64年頃であったと伝えられている。
今日の聖書の個所は、主イエスが神殿について言及しているテキストである。4節「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」とは、ヘロデ神殿の外観を的確に伝える言辞であろう。その通り、ユダヤ国内ばかりでなく、異邦世界の人々にも、エルサレム神殿の壮麗さは、評判の的であった。それまで、エルサレム神殿は、純粋に信仰の場として、外国人の参拝など問題外であった。ところがヘロデ大王は、神殿改修の目玉として、「異邦人の庭」を設けることで、物見遊山の外国人にも門戸を開き、インバウンド収益を画策したのである。その目論見は見事に当たり、莫大な収益に預かることで、大祭司以下の神殿当局は、王の施政に極めて従順になったのである。
ところが80年あまり続けられた改修工事の完成とともに、18,000人以上の工事に関わっていたユダヤ人は職を失い、ローマ総督の悪政もあって、ユダヤに反乱が起ったのである。その鎮圧のため、ローマ軍が侵攻し、神殿はAD70年に崩壊する。それは奇しくも、最初の神殿、ソロモンの神殿がバビロン軍によって崩壊したのと同じ月、同じ日であったという。6節「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と予言する主イエスの言葉通り、ユダヤ戦争において、ローマ軍は神殿に火を放ったので、豪華さを演出するためにかぶせてあった金は溶け、重ねてあった石と石の隙間に流れ込みんだ。そして冷えて固まった頃、ローマ軍は戻って来て、石を崩しながら溶けた金をかき集めて行ったのである。まさにイエスの言葉通りのことが起こった訳である。
この発言から、聖書学では、福音書の成立年代を、ユダヤ戦争前後に想定する傾向がある。常識的には、そう考えた方が合理的と言えるだろうが、極めて高い「洞察力」があるならば、このような発言も可能なのではないか。さしもの歴代の大帝国、アッシリアも、バビロニアも、壮麗で見事な文明を築いたが、今それらは、遺構として塵芥の中に埋まっている。ヘロデ神殿もまたしかり、ここを訪れた者が皆、ユダヤ人も異邦人も大絶賛する見事な建造物に対し、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と断言するところに、主イエスの主イエスらしさを感じさせられるのではないか。主イエスならば、この位のことは、言いのけて当然だと思うのは、それ程、主イエスは物事の根源、そして人間の営みの本質を、よくよく見抜いておられたからである。
但し、このような発言は非常に危険な側面を含んでいる。揺るぎなき「権威」が、あっけなく打ち砕かれるというヴィジョンは、カルト的な熱狂をも生み出すのである。それは「終末論」と結びついて、日常生活の軽視と、現実と観念の逆転を生じる。つまり、今は非常事態なのだから、つまらぬ日常の事柄は問題にならない、という極端さ、偏狭さがもたらされる。
主イエスのあからさまな発言を聞いて、不安を覚えたのだろう。弟子たちが思わずこう尋ねている。7節「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。パニックに陥っている弟子たちの姿が想像されるが、それは図らずも私たち自身の姿でもある。不安におののく弟子たちに、主イエスは語られる。10節「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
この発言にも、主イエスらしさが良く表れている。それは「思考の健全さ」である。権威の象徴の神殿が、破壊されるようなことがあっても、それで全くの終わりとはならない。そもそも「神殿」は、いくら壮麗であっても、神の手によって造られたものではなく、人間の手の業に過ぎない。素より「永遠」ではないのである。傲慢な人間の営みは、神の御手によって打ち砕かれる。主イエスは、常に神の目から人間を、そして人の世を見ておられる。それはあたりまえの人間の生命に対する慈しみの目であると言えようか。