もうかれこれ20年以上前になるが、アメリカのニューヨークから数時間の郊外の、とある田舎町で、ホームステイをさせていただいたことがある。お父さんが教会の役員、お母さんは奏楽奉仕をしているホストファミリーのお宅だった。まだ教会堂が建っておらず、町の公民館を借りて礼拝を守っていた。日曜日になると、町の商店はどこもシャッターを閉ざし、休みである。午後になると家のリビングには、教会の若いもんが何人か来て、自由に寛いでいるという風情であった。そして玄関のカギはかけず、夜でも開いている。アメリカでもこんなところがあるのか、と驚かされた。ニューヨークの街中のホテルでは、一晩中、パトカーと救急車と消防車のサイレンがけたたましく鳴り響いていると言うのに。
私の子ども時代は、住んでいたところが田舎だったせいもあるが、大体、玄関のカギをかける習慣はなかった。町内会の人や、出入りの業者は、勝手に茶の間まで上がり込んでくる、という具合だった。留守にする時も、玄関のカギはねじ式で、ねじ込んだ後、トイレの掃き出し窓から外に出てゆく、という風に、防犯も気休め程度のものだった。もっとも、家の中に現金はないし、貴重品と呼べるような代物もなかったが。いつの頃からかこの国は、どこの家も昼間でも、しっかりと玄関に鍵をかけるようになった。生活が変わったのである。
自衛のための軍事力を「家の鍵」に喩える向きがある。「泥棒や強盗から自分の身や財産を守るために、皆さん、家の玄関には鍵をかけるでしょう。それと同じようなものです」。しかし、これはいささか乱暴な比喩である。そもそも「鍵」は単に玄関の扉を開かないようにするためのもので、他人に危害を与える代物ではない。もし「鍵」の方が、侵入しようとした輩を阻止するために、武力を行使し、危害を加えたなら、これは「鍵」の設置者が重い責任を問われることになる。「鍵」はそんな機能は有していない。さらに、「兵器」のような取り扱い厳重注意の、異常に高額な代物でもない。
今日取り上げる聖書の個所は、ルカの「特殊資料」だが、「解釈の十字架」とも評される、理解の困難なテキストである。主イエスが、神殿当局から遣わされた者たちに捕らえられた前の晩に、弟子たちにこう言われた。36節「しかし今は、財布のある者はそれを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」。ここで主イエスは、弟子たちに「剣」即ち「武器」を手に入れるように、勧めているのである。そして弟子たちが「剣なら、ここに二振りあります」と応じると、主は「それでよい」と言われた。
12人に「二振りの剣」とは、確かに「武装」とまでも言えない、「自衛」のための装備かもしれない。自然の中、山野で生活するためには、大型のナイフ類、刃物類は生きるために必要不可欠な道具である。衣食住の多岐にわたり、刃物の出番はことのほか多い。身体それ自体では、最も脆弱な能力しか持たない人間の、サバイバルのための知恵であるとも言えるだろう。しかし、この「二振りの剣」は、武装の勧めではないにしても、自衛のための最低限の武器の備えを、奨励するものなのであろうか。
38節の「二振りの剣」を弟子たちから示された時に、主イエスは「それでよい」と言われた、とあるが、ある学者によれば、この言葉は「もうそれで十分だろう。いいかげんにやめにしろ」という意味を持つとも理解できるという。主イエスは「二振りの剣」について、弟子たちは「もう準備してあります」、とばかり得意の面持ちで示したことに対して、決して褒めているのではない、というのである。確かに、ユダに手引きされた大祭司の手下どもは、「剣や棒を持った群衆」と呼ばれており、多勢に無勢、「二振りの剣」くらいでは、事態はどうにかなるものではない。現に「大祭司の手下のひとりに打ちかかって、その右の耳を切り落とした」というのが、せいぜいであったろう。それでもこの手下、成り行きとはいえ、痛そうで、同情する。主イエスはこの手下の傷を「癒された」という。聖書版「耳なし芳一」のようだ。
オリーブ山での捕縛に際して、主イエスと弟子たち、そして大祭司の手下たちのやり取りを見ている限り、主イエスは、自衛のための武器を備えることに、必ずしも積極的に肯定しているとは言い難い。「仕方がない」「いいかげんにしておけ」というニュアンスを主の言葉から聞き取れるのである。
「自分の服を売ってでも、剣を買え」という主の言葉を、正しく理解するために、注目したい言葉がある。36節の冒頭の言葉である。「しかし今は」。これまで、弟子たちには、主イエスがいつも共にいてくれた。一緒に歩き、み言葉を伝え、病人を癒し、さまざまな人々と食卓を共にした。自分たちだけで遣わされる時も、主イエスが背後にいてくださり、自分たちのために祈り、取り成しをしてくださった。主イエスの名を出せば、悪霊までも従うのである。「何か、不足したものがあったか」、「いいえ、何もありませんでした」。主イエスと共にあるなら、何もなくても、何も不足することはなかった。それこそが、「インマヌエル」、主が共にいてくださるという真実であったのだ。
「しかし今は」、どのような時なのか。主イエスが自分たちのところから無理やり引きはがされ、連れ去られる。かけがえのない主が奪われる時、なのである。十字架とは、神の子である主、インマヌエルの主が奪われ、不在となってしまった時なのである。「何もなくても、何も不足しない」大きな恵みが取り去られる時、が「今」であり「十字架の時」なのである。その時には、もはやインマヌエルの恵みから引きはがされた私たちには、剣に頼る他、生きる術はなくなる。自分で剣を振るって、自分を守るしか、安心を確保することができなくなる。それでも「あなたがたが自分の力で振り回すことができるのは、せいぜいその二振りの剣ぐらいのものだ」と主は言われているのではないか。
インマヌエルから目を反らす者は、自分の力で武器を奮い、自らの身を守るしかない。いつも周囲を伺い、絶えず危険予知に神経が削がれる。どこに危険が潜むか分からないからである。それで本当に「安心」を得られるか。現代の人間関係、国際関係の問題の根は、すべて「インマヌエル」の事実に、皆が目を向けられるかどうかに掛っていると言えるだろう。十字架の主は、復活の主でもある。今もインマヌエルをもって、わたしたち人間の間に、赦しを立てられるのである