『雅歌』は、ヘブライ語聖書では、「諸書(メギロート)」の部に置かれ、旧約聖書の中で最後尾に置かれた文書のひとつである。この書物が正典とされたのは紀元1世紀、ユダヤのラビ(律法学者)たちが集まって、正典化決定の議論を行ったヤムニア会議である。そして、最後まで議論が紛糾したのは、本書と『コヘレトの言葉』のふたつであった。どちらの文書にもソロモンの名が記されていることが、判断の決め手となったとされるが、おそらくそれは表向きの理由で、ラビたちもこのユニークな思想や表現を持つ書物を、正典から除外するのは、忍びなかったのであろう。もし外されていたなら、現在の旧約は、文学としての魅力が半減したであろう、とまで言うのは、言い過ぎであろうか。
『雅歌』というタイトルは漢訳聖書に遡るが、原典では「歌の中の歌」と題されている。「第一の知者」として、あるいは「栄華を極めた」と評される王ソロモンの手になるとされる作品であるが、確かに、美しい言葉が連ねられ、また、巧みな表現が駆使され、ち密に構成されている文学であるといえる。しかし、物語の流れは一貫せず、この文学が何のために記されたのかは、不明である。古くは、ソロモンと伝説の女王、シバの女王との関係を叙情的に描いた作品、と見る向きもあったが、やはり読み込み過ぎであろう。
さらに、芸術性の香り高い的文学であることは否定できないにしても、本書には、神の名も、「神」という言葉すらも一句なりとも記されていないのである。虚心坦懐に読めば、『雅歌』は、古代イスラエルの「恋愛歌」であり、それもいくつかの異なる歌の断片が、繋ぎ合わされて、現在のような形になったものであると理解されるであろう。
聖書学者は、『雅歌』を次のように考えている。「実際今日では『雅歌』に収録されている数十の歌は、婚礼歌と恋愛歌と見られている。十九世紀中ごろ、ダマスコ在住のプロイセン総領事だったヴェッツシュタインのその土地の婚礼の習慣の報告によると、婚礼の前日、花嫁は人々が彼女の装いと体の魅力を歌うのに合わせて剣の舞をまい、蜜月の間二人は王と王妃として祝われ、この期間に多くの歌が歌われる」(後藤光一郎)。
この報告は、パレスチナ周辺世界に住む砂漠の民、「ベドウィン」の婚礼の様子を伝えるものであるが、イスラエルにも同様の習慣があったことは、想像に難くない。新共同訳には、原文にない小見出しが付せられているが、「おとめ」、「若者」、「おとめたち」、「合唱」等、何人かの歌い手によって歌われたことが示唆されており、縁起の良い、麗しい歌をもって、婚宴に喜びと祝賀を表す行為は、古今東西、普遍的な人間生活の営みでもあろう。婚宴において、イスラエルの人々がこのようにして、祝い、楽しみ、喜びを表明したのか、直に触れることの出来る、稀有な伝承であるとも言えるだろう。
さて今日の聖書個所、『雅歌』の3章であるが、2章から続く「おとめの歌」の後半部分である。「愛する者を見失ってしまった嘆き」が切々と歌われ、不安で、切ない心情が余すところなく吐露されている。見失うという不安、恐れ、そして見出すという安堵、喜びがコントラストに語られ、心がふらふらと揺れ動く様が、見事に描写されている。4節に「母の家に、私を生んだ母の部屋に、(愛する者を)お連れします」と詠われているが、「母の部屋」とは「家」の最も内奥の場所、他人には伺うすべもない隠された場所であり、そこに連れて行くことは、「愛する者」がもはやよそ者でなく、身内であり、「骨肉」の存在であることを示している。またその場所は、最大の安心・安全が担保されていることを暗示されている。安全・安心とは、「愛」を「見失う」ことのない場所のことで、人にはそうした場所が与えられている。それがどこにあるのか、「母の部屋」という言葉は、隠喩として示そうとしているのである。
6節以下の「合唱」の部分は、おそらくは婚礼に招かれた者たち、全員によって歌われた寿ぎ歌だろう。「ソロモンの輿に乗るおとめ」、即ち、花嫁が王妃に準えられて、その装いの美しさ、艶やかさ、雅やかさが称えられる。また花婿は、ソロモン王に準えられて、人々から大いなる栄誉と称賛を受けるのである。
現代のユダヤ教の婚礼にも、おそらく『雅歌』のこうした伝承を受け継いでいる習俗が見受けられる。婚礼に招かれた客は、宴もたけなわになると、丸く円を作って歌を歌い、ダンスに興じる。そうしている内に、花嫁、花婿の座っている椅子が、皆によって高く担ぎ上げられ、まるで神輿のように、会場を練り歩くのである。二人を高く掲げて、皆がその周囲を取り囲み、後について行進する風景は、まさに王と王妃の隊商を模しているのではあるまいか。
前述したように、『雅歌』には神の名も、「神」という言葉すらも登場しない。教父オリゲネスは、「『雅歌』は霊における成人だけに、読むことを許される書」と注意を与えたが、それは、神の不在と深くかかわるのである。ここで、神はどこにおられるのか、という問いについて再び考えたい。本来、世俗の恋愛歌、また実際の婚礼の習俗が、この歌の背景、生活の座であるだろう。しかしそれが隠喩として「神とイスラエルの関係」に移し替えられて、正典にふさわしい書物として理解されたと、神学的には説明される。
しかし婚宴というおめでたい席で、皆が、結ばれた若者たちの、これからの新生活を祝福し、幸いを願っている中にしゃしゃり出て、お祝い気分を損なうようなことを神はなさらないだろう。神は皆の祝福の声を聴いているのである。それ以上に、自分たちの出会いの喜びと不思議さに、浸っている二人の仲に割って入るような、無粋なことは、いくらイスラエルの主といえど、邪魔はなさらない。二人の、そして人々の歌う「愛の歌」に静かに耳を傾けておられるのではないか。