今年もはやアドヴェント、待降節を迎えた。一年の巡りは早く、間もなく年の瀬を迎える。待降節は、主のご降誕を「待つ」時である。キリスト教はまず「待つ」ことからことを始める。ただ「待つ」ということの重みを、例年以上にひしひしと感じるこの年である。何を待つのか、差し当たっては、以前のような、日常の回復、つまり気兼ねなく誰かと会い、気兼ねなく共におしゃべりをし、共に食い飲みする、この当たり前だった生活が、取り戻される時を「待つ」。この当たり前の生活が、いかに高価なものであったか、値打ちのあるものであったか、今はそれが、「高嶺の花」のようなものとして、私たちの目には映っている。
アメリカの大統領選で勝利宣言をしたバイデン氏のスピーチには、こう語られていた。「聖書は『なにごとにも時がある』と説きます。『建てる時、植えたものを抜く時、植える時、癒やす時』。アメリカは今、まさに『癒やす時』です」。ある新聞(東京新聞11月10日付「筆洗」)はこんな彼の逸話を紹介していた。「交通事故で妻と娘を亡くした男はその悲劇に自分の人生を奪われたと感じていた。その数年後のことだ。空港で一枚の広告ポスターが目に入った。かわいらしい女性が写っていた。へえ、こういう女性なら会ってみたいものだ。ある日、弟が女性を紹介すると電話番号を教えてくれた。デートの段取りが整い、家に迎えに行った。待っていたのは空港のポスターのあの女性だった。男はその後女性と再婚する。『彼女は私の人生を取り返してくれた』、ジョー・バイデンさんが自伝の中に書いていたジル夫人との出会いである」。
「なにごとにも時がある」、彼がどのようにそのみ言葉、「癒す時」を実行、実現して行くかは「これから先のこと」であろうが、アメリカ一国だけでなく、全世界の人々が、今「癒す時」というみ言葉に直面しているとも言えるだろう。神はこの世界に「時」を設けておられる。今、どんな時であるのかを見極め、その時を深く知り、「時宜にかなう」ように言葉を語り、さらにふるまう(行動する)こと、先ほどのみ言葉を語った古の知者、コーヘレトは、今の私たちに訴えているようである。
待降節なのでイザヤ書のみ言葉が取り上げられる。預言者は、未来のことを告げながら、今、何をなすべき時なのか、どういう時なのかを、人々に訴える。1節「終わりの日に、主の神殿の山々は、山々の頭として高く上げられ、どの峰よりも高くそびえる」。「エルサレムについての幻」とあるが、この町は標高800メートルの小高い丘の上に位置する。この町に古くから祀られている神は、イスラエルの人々がここに入ってくる以前から、エル・シャッダイ(至高の神)と呼ばれていた。「小高い丘」とは言え、エルサレムに詣でるには、周辺の地形は起伏に富んでいるから、幾重もの峰や峠を超えねばならない。さらにこのあたりの低地は、大体海面下200m以下であるから、つごう千メートル以上の高度を登攀することとなる。多くの民が来て言う「主の山に登り、ヤコブの家に行こう」。結構な大登山、山行である。高低差が千メートル以上あると、携える荷物も重く、登攀するのに体力的負担は大きい。その結構ハードな山であるエルサレムが、さらに「どの峰々よりも高くされる」と預言者は言う。この章句は、通常、イスラエルの神ヤーウェが、他の神々に比べられないほどの大きな栄光を示し、高く上げられる、まさにエル・シャッダイの名にふさわしい、という「ヤーウェの高挙」をたたえる表現だとされる。国の繁栄、隆盛は、その国にまつられる神の栄光の現れなのである。
しかしこれは「登山」になぞらえての喩である。千m級の山でも、登るのは一苦労、大骨折りである。それがヒマラヤ、エベレスト級の高さの山への登山となれば、もう素人には無理、第一、どんな道をたどって登ったらいいのか、ルートも道筋も皆目わからないではないか。そういう私たちの気持ちを推し量って、預言者は言葉を続ける。「主はわたしたちに道を示される」。神ご自身が登山ルートを教えてくださるのだという。ではそのルート、神の山に登るための道とは何か。
4節「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。国連の正面玄関に掲げられている有名な聖句である。イザヤの時代、人々の間に合言葉のように交わされていた一つのスローガンがあったという。それは「鋤を打ち直して剣とし、鎌を打ち直して槍とせよ」。今こそ戦いのときは迫った。隣国に向かって剣を上げるべき時はきた。さあ戦いを学べ!戦争の準備をせよ。このような巷間の人々の、煽り立てる言葉を、預言者はそのまま裏返し、パロディにしたのである。この預言の言葉を聞いて、人々はどう思ったろうか。隣国の脅威が迫る中、なんと夢物語の、なんと理想主義の、なんと甘ちゃんな考えだろうか。そんなことすれば、この国を虎視眈々と狙う隣国の格好の餌食だ、と。今も同じ声が世界のあちらこちらで響いてはいないか。イザヤの時代の人々にとって、また現代のわたしたちの時代にとっても、この「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」というみ言葉は、エルサレムの山塊の巨大な屏風岩のように、私たちの前に屹立している。そもそも、神の言葉は、どんなことをしても超えられない壁、ハードルと思ってしまう。神はそんなにも、無理難題を私たちに求めるのだろうか。
そもそも打ち直されるべきは何なのか。無力感にひるむ「私の心」ではないか。それこそが、まず打ちなおされねばならないのではないか。それだからこそ、「鋤を打ち直して剣とし、鎌を打ち直して槍とせよ」という無情で、無力なこの醜い世界に、キリストは小さく非力な幼子として、誕生されたのだ。それは神が「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」ことを、真実としてこの世に表すためである。主は「赤ん坊」としてこの世に来たり、「十字架」によってこの世と向き合われたのである。だからこそ、5節「主の光の中を歩もう」と言われるように、私たちは、赤ん坊である神の子を、この手に抱き、十字架に血を流された神の子にひれ伏すのである。それが「神の光の中の道を歩む」ことであり、まさにこれこそ「癒しの道」である。今、癒しの道を歩み始める時が来ている。
世に登山家は多いが、女性だけの登山隊で、世界の最高峰ヒマラヤ、エベレストに登頂を果たした女性登山家、田部井淳子さんの名をご存じであろう。難しい病気と闘いながらも、病気との折り合いをつけながら、生涯、山を愛する人と共に、山に登り、老いも若きも様々なグループの人々と交わり、活動を続けてこられた。
最晩年に、看病されていたご子息のひとり、進也氏が、亡くなる数日前の思い出を記しておられる。「旅立つ一週間くらい前だったと思います。寝ているときに夢でも見ていたのでしょうか、病室で仕事をしていると突然、『ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい』と両手を上げました。『それじゃ、みんな集まって、おにぎり食べるよ』と。その後、いっしょに登っていた人たちと話していたのでしょうか。『別々のルートを行くのはダメ。絶対に一緒に行くよ』と。夢の中まで歩いていました。本当に山が大好きな母でした。
こんな声をかけながら、共に山に登ってくれる仲間がいるなら、その道は何とあたたかで、明るく、安心できる道のりだろうかと思う。主イエスの生き方、その働きと二重写しになる。主イエスはまさに、私の歩みの隣に、声を掛けてくれているではないか。おにぎりを共に食べ、いなくなった子羊のような私に、「絶対に一緒に行くよ」と言ってくださるだろう。そういう神の山への道は、何と「光の中」にあることだろう。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。