祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙5章1~11節

ずいぶん前のこと、車を運転していて、短い期間に、二回連続して、後ろから追突された経験がある。乱暴な運転をしていた訳ではなく、天候が悪い日でもなかった。車の修理屋さんも、まだ一回目のキズを直す前に、更にもう一度だったので、気の毒そうな顔をしていた。「二度手間にならなくて、まだましだと思いましょう」と慰めてくれた。義理の兄(キリスト者ではない)が、二回の追突のことを耳にして、親身に心配してくれたのだろう、こう言った。「雅弘さん、お祓いをしてもらった方が良くはないですか、キリスト教にはお祓いはないのですか」。心遣いはうれしかったが、苦笑せざるを得なかった。

人生には3つの坂があるという。「上り坂」、「下り坂」そして「まさか」であるという。殊更「苦難」とまでは行かないとしても、生きる中では、大変な事、突発事態やまさかの困難に見舞われることがままある。確かに、自分の判断ミスや準備不足、思慮の足りなさが、そうした事態を引き寄せることもあるだろう。しかし大抵は、手抜きはしたつもりはないけれど、運が悪いと言うしかないのではないか。

「コヘレトの言葉」の中に、こういう章句がある「人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり/鳥が罠にかかったりするように/人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」。コヘレトの考え方は極めて現実的である。「苦難」は、鳥や魚が罠で捕らえられるようなもので、ただ運が悪かったとしか言いようがないものだ。人間が自然災害によって被災をすることも、悲しいことだが、本質的にはそれと同じだと言うのである。

ところが人間はコヘレトのようには、そんなに簡単に達観できないもので、直ぐに「苦難」の理由や意味を考えて納得しようとするのである。納得したところで、苦しみがなくなる訳でもないのに、敢えてそうでもしないと、落ち着かないのである。自分自身に降りかかった苦難ならば、自分自身でどういう風に考えようと自由である。自己責任でも自業自得でも、あるいは誰かのせい、時代のせいでも、人生虚無だ、でも何でも、納得できる手前勝手な理屈を捏ねれば済むであろう。

しかし、人間の目は「目梁」であって他人の目の中の塵は、良く目につくのである。誰かの苦難を横目に見て、声を掛けるでも、手を差し伸べるでもなく、勝手な理屈を投げかけるのである。主イエスの弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見て、「この人が見えないのは、先祖の誰かが罪を犯したためですか、それとも本人ですか」と情け容赦のない言葉を漏らすのである。「因果応報」という便利な理屈を付与した所で、事態は何も変わる訳ではない。

初代教会に集った人々は、キリスト者として生きることで、大いなる自由と喜びとを手に入れたといって良い。旧来の地縁血縁に縛られた、地域共同体のしがらみを脱して、多様な背景を持つ人々との交わりの、新しい共同体(エクレシア)を得たのである。ところがそれによって、地域社会から迫害や偏見を受け、悪意や疑念の目にさらされることにもなったのである。「ふたつ良いこと、さてないものよ」。

今日の聖書個所には、名だたるローマ書の名文句のひとつが記されている。3節以下「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」。「苦難をも誇りとする」、というパウロの言葉だが、コリント二11章の「苦難のリスト」で語っているように、確かに人並外れて、宣教において苦労したことは、間違いはないだろう。だから、自分の苦労の大きさを誇っている、ようにも受け取れる。彼の多大な苦労によって生み出された果実、即ち新しい教会が誕生したのであるから。しかし自分の苦労の大きさを誇る、というのはあまりにこれ見よがしで、醜悪でもあるだろう。

この言葉は、彼一流の逆説の表現である。他人は人の不幸や苦しみを見て、勝手なことを言いつのる。「他人の不幸は蜜の味」という嫌な言葉すらも語られる。キリスト者の苦難を見て、嘲笑い、いい気味だと鬼の首を取ったかのように、喧しく語る輩がいるのである。「間違ったことをしているから、苦しい目に会うのだ、痛めつけられるのは、実は神の罰を受けているのだ」。

こういう故無き批判に応えて、パウロは「誇り」という言葉を用いる。即ち「苦難」は確かにネガティブな事柄で、ない方がいいことではあるけれども、それが生み出す恵みというものがある、と言うのである。恵みは、人間の都合の良いものとしてのみ働くのではなく、都合の悪い事柄によっても、豊かに示されるのである。パウロは人生の、信仰生活の職人技のような生き方を披露しているのである。

まず「苦難」は「忍耐」を生み出すという。苦しみへの対処は、ひとつはその「原因」を取り除くというやり方である。しかし「苦難」が「キリスト者として生きる」ことで生じるなら、除去はできないだろう。信仰を捨てるしかなくなるからである。ならば「忍耐する」というやり方を選ぶことになる。ところが人間は、痛みや苦しみにただただ耐える、というあり方はしないというか、できないものである。必ず何らかの耐えられる道を見つけようと試みるものである。すると徐々に「練達」、つまりうまく忍耐できるようにもなるだろう。それができるようになると、「大丈夫」、あるいは「何とかなる」との見通しがつくようになる。即ち「希望」が生まれるのである。そしてそうして生まれた希望は、借り物のまがいものではなく、自らが見出した希望ゆえに、自分を欺くことはないのである。

しかしそうした生まれた希望は、どこからやって来るか。パウロは「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とその根拠を語る。この世に来られ、私たちの世に生きられた主イエスは、神の御子でありながら、十字架に付けられ無残になくなられた。これを置いて他に「苦難」と呼びうるものがあるだろうか。しかし神は、この十字架で死なれた主イエスを、よみがえらされたのである。そこに神の愛の究極のかたちがある。苦難に苛まれたとしても、神の愛は私たちを、その渦中放ってはおかれないで、必ず逃れる道を備えて下さるであろう。これを私たちは聖霊の働きによって、告げられているのである。人生の下り坂も、まさかの坂も、あわてず騒がず落ち着いて、歩むすべを与えられているのである。