永眠者記念礼拝「何をしたのか」創世記4章1~9節

「これが私の故里だ/さやかに風も吹いている/心置なく泣かれよと/年増婦の低い声もする/ああ おまえはなにをして来たのだと/吹き来る風が私に云ふ」。山口の詩人、中原中也の『帰郷』という作品の一節である。この詩人にとって、故郷の山口は、あまり居心地のよい場所ではなかったようだ。「おまえは何をして来たのか」吹いてくる風の問いかけは、そのまま周囲の人間の心の声なのだろう。家族や親族は、詩人としての彼の働きを、ほんとうに受け止め理解することができなかったようだ。それでもこの詩人もまた、故郷に帰れば、ほっとする、涼やかな風が吹き、心置きなく泣くことのできる、懐かしい場所であったのは、間違いはない。

今朝は「永眠者記念礼拝」を守る。今、この一年の間に、この教会の会員で、天に召された方々のお名前をお呼びした。ひとり一人の在りし日の面影を、懐かしく思い起こす。これらの方々は、教会のお父さん、お母さんと呼んでも良い、この教会の礎を据え、支え、キリストの手足となって仕えてこられた方々である。そして後に続く人たちのために祈り、糧を与え、手を引いてくださった。人は一人では生きられない、親の力ばかりでなく、生涯さまざまな人のお世話になりながら、歩んで行く。学校ならば、教師と生徒は三年、ないし四年くらいの、まず在学中だけの付き合いである。しかし教会は、そうではない。卒業というものはない、たとえ一時、教会を離れたとしても、帰ってくれば、懐かしい面々はそこにおられるのである。聖書も語るように、教会は、目に見える、私たちの魂の故郷と言っても良いだろう。

今日の聖書個所は創世記4章、「カインとアベル」の物語である。アダムとエバの物語に続き、彼らの息子たちのことが記される。良く知られた話であるが、その内容を一言で言えば「兄弟殺し」である。父母、兄弟姉妹は、「身内」、「同胞」と呼ばれるように、最も身近な存在である。兄が弟を殺す、確かに異常だろうし、異様な事態、事件であろう。哺乳類の中で、同じ種族同士で殺し合いをする生き物は、決して多くはない。そのわずかに人間が入っている。人間は人を殺すことがある。しかしなぜ聖書は、その初めから「兄弟殺し」を語ろうとするのだろうか。

この数年、日本で起きている殺人事件の内訳をみると、親族間での殺人が頻繁に起きている。法務省が発表している殺人事件の動向というデータでは、2016年に摘発した殺人事件(未遂を含む)のうち、実に半分以上の 55 %が親族間殺人なのである。実際に検挙件数そのものは半減している中で親族間殺人の割合は増加している。殺人事件そのものは減っているのに、親族間の事件は増加している。つまり、 家族、血族、そして他人から親族になった人に対して、強く明確な殺意をもたらすほどの感情が、むしろ強まっているということがわかる。赤の他人であれば、許せるけれども、身近な家族であると許せない。一見パラドキシカルだが、実は、誰もが抱いたことのある感情ではないだろうか。聖書はやはり人間の本質、人間が抱える一番の問題を提示して、鏡に映すように、私たちに自らの本当の姿を映し出してくれる。土から造られたアダムは、私でありあなたである。それと同様に、弟殺しのカインは、私でありあなたなのだ。

アベルは羊飼い、カインは農民だったという。文化史的にこの2つの職業は、最も古い起源を持つ仕事である。今、消え去る職業というのがしばしば話題となるが、数十年の内に、現在ある職業の半分が、消失するだろうと言われる。例えば交通機関の運転手、自動運転の時代を迎えている。しかしやり方や方法、形は変われども、農業と牧畜の仕事は、しばらくはなくなることはないだろう。そしてこの2つの職業は、定住と放浪という生活スタイルの違い、とかく水や土地を巡って、利害が相反し、対立や紛争を生んできたことも、良く知られている。牧畜民アベルが、ひいき目に描かれているので、聖書の民は元々アベルのように遊牧生活をしていたと説明されることも多いが、イスラエル人は羊や山羊等小家畜を飼育し、さらに自分の家の周りの土地を耕し、作物を育てるという、何でも生活をしていたのである。そうしなければ生きられなかったのである。ただ物語というのは、筋を分かりやすく、メリハリをつける必要があるので、対照的なキャラクターを登場させるのである。

収穫の季節が来たので、カインとアベルはそれぞれの実りを感謝のしるしとして、神に捧げた。ところが神は、「アベルの供え物は受け入れられたが、カインのそれは拒絶された」のである。問題はその理由である。なぜそうなのか、理由はまったく語られないのである。不公平、不平等、不条理、まっとうな理由が示されない差別に、人間は平静でいられない。「カインは怒って顔を伏せた」。そして問題は、この事件が起きる直前に、神がカインに語られた言葉である。6節「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。この神の言葉を私たちはどう聞くのだろうか。「顔を上げて」と言われるが、顔を上げて、どうしたら良のだろう。

本来、怒りを感じたら、その原因になった人物や組織に向かって感情をぶつけるのが筋だ。しかし、それができない状況だったり、直接反撃するのが怖かったりすると、代わりにほかのものに感情をぶつけて、それによって心のバランスを取ろうとする。これは、精神分析で「置き換え」と呼ばれる防衛メカニズムである。この「置き換え」による鬱憤晴らしを知らず知らずのうちにやってしまうのが人間という生き物だ。怒りをきちんと出せず、不満と怒りをため込む人はどこにでもいるが、これは主に恐怖、無力感、怠慢によると考えられる。まず、自分の怒りの原因を作ったそもそもの相手に怒りをぶつけることも、交渉することもしないのは、やはり怖いからだろう。こういう恐怖を抱くのは無理もない。役所も政府も、怒りをぶつけるには大きすぎる。企業に不満を訴えて交渉したら、クビになる恐れだってある。そうなれば、経済的に困窮することへの恐怖も強い。(片田珠美・精神科医)

そう、不条理や不可解の中で神に向かって顔を上げ、アベルにではなく、当事者の神に向かって怒りを発すれば良かったのである。納得できません、分かりません、腹が収まりません。何が悪かったのですか、と神に食って掛かれば良かったのである。そんな恐ろしいことは出来ない、無力だ、そんな力は私にはない。もうどうでもいい。この歪んだ思いがカインをアベルに向かわせる。「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」。

顔を上げて神にひたすら訴える、これは私たちにとって、およそ無理なことで、出来ない相談なのだろうか。主イエスの生涯を思い起こしてほしい。主は人としてこの世に生まれ、人の子の一人として、この世を生きられた。そして最も不条理の最後、十字架につけられて、血を流し、息を引き取られた。しかし、主イエスはいかなる時にも、人間の顔に向かったのではなくて、常に神に向かって、神に対して生きられたのである。十字架で息を引き取られる時も、彼が顔を向けたのは、ローマの兵隊たちでも、祭司長たちでも、群衆でもなかった。ただ顔を上げて、「エリエリ レマサバクタニ」、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。自ら不条理の中で、ただ神に向かって、神に叫ぶ主イエスの姿。本当に、ここにこそ私たちの生きる真があるのではないか。

今は天に帰られた信仰の先達者たちも、その人生の中で、失敗や病、失意や不条理を味わい、時には不遇をかこちつつ生きる時があったことだろう。しかしその時でも、自分がどこに行くべきか、何に向かったらいいか、を知っておられたひとり一人であった。教会は主のからだ、見えない主がおられるのである。そして私と共に神に、向かってくれる場所である。そういう所こそ、ほんとうの故郷ではないのか。