「思いがあらわに」ルカによる福音書2章21~40節

謹賀新年、この年もみ言葉にいよいよ親しみつつ、日々歩みたいと願う。

夏目漱石の小説『吾輩は猫である』はこのように物語が始められる、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮て食うという話である」。生涯、名を付けられることがなかった主人公の「猫」は、終生、まるで空気のようで確固とした存在感を持たず、ふわふわと人間の間を自由に行き来し、その偽りない有様を観察する。

本日の聖日は、「主の命名日」である。誕生から8日目、つまり生後一週間後に、ベツレヘムの家畜小屋で生まれたマリアとヨセフの幼子が、「イエス」と名付けられたことを記念する祝日である。クリスマスが日曜日に当たっていたので、この日、元旦が丁度「主の命名日」にあたる。生まれてから、一週間目にお祝いとお披露目の式を行うことは、世界各地で行われているしきたりであるし、この国でも「お七夜」と呼ばれて、その誕生を皆で祝う時を持つ。その中心はやはり「命名」である。古代では家長が、まだ名を持たぬ新生児に対して、固有の名を呼ぶことで、その子どもが家族の一員となったことを公に宣言する訳である。それは同時に、その子を養育することを正式に皆に告知することでもあった。

現代でも、悲しいことだが、誕生したすべての幼児が、皆等しく暖かな祝福の内に人生の歩みを始められる訳ではないように、とりわけ古代では、誕生したら皆、幸せに成長できるものでもなかった。持病や疫病の蔓延、栄養不良、生育環境の困難さが新生児の前に立ちふさがった。それと同時に、家長、多くは父親が「養育」を公に宣言しなければ、赤ん坊はゴミ捨て場に捨てられて、端から生存できないのである。

だから聖書に「わたしはあなたの名を呼ぶ」と神が人間に呼びかけ、さらに「主よ、わたしはあなたの名を呼ぶ」と応答するのも、関係というものの根源的な洞察がそこにある。生まれてすぐに「名を呼ぶ」ことなしに、「生命」は保たれず、成り立たないのである。主イエスもまた、そのように「名を呼ばれる」ことで、人生の歩みを始められた。その名前の意味は。「主は救い、われらを救いたもう」これはかの幼子の生命の行方、そのものであった。私たちもまた、自分で選び取ったのでもなく、決めたのでもない、なぜかしら他から「強制」されて付与された「名前」によって、人生の歩みを始めて行ったのである。この他からの賜物(ギフト)によって、私たちはどのように、この世に足跡を記すのであろうか。おそらくその「賜物」即ち「祈り」にふさわしい轍を記すのであろう。それもまた自分自身で確かめる術もないのだろうが。

今日聖書の個所は、主イエスのお七夜から、その後、40日目のお宮参りに至る、この国でもおなじみの生誕儀礼にまつわる逸話である。ユダヤの風習とこの国の作法が、よく似ていることに驚かされる。このお宮参りの時も、私たちがしばしば見かける懐かしい光景が展開している。お年寄りが、生まれたばかりの赤ん坊をその腕に抱き、いのちの幸いをその身に感じ、喜びを表すという場面、こういう光景こそ、この世界に目に見える至福の時と言えるだろう。長年、ひとり神殿で時を過ごして来た老預言者シメオン、そしてこれもまた若い時に夫を亡くし、ひとりのやもめとしてずっと神殿に寄寓していた女預言者アンナ、この二人との出会いは、まさに幼児イエスの宮参り最も似つかわしいシーンであり、この二人こそ、このシーンでのまさにはまり役であると言えるだろう。

この場面で、幼児を抱いたときに、思わず漏らした老シメオンのつぶやきは、その言葉を聞く者に深い感慨を呼び起こす。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」この老人の言葉を、もっと一般的に端折って言い表すなら、「もう思い残すことはない」という満ち足りた心情の吐露である。そして人間のいのちの最後に訪れてくる問いは、やはり「神の救いを見る」ことに尽きるだろう。それは、これまで幾度となく聞かされていた言葉、「そんなものか、おそらくそうなのだろう、しかしほんとうにそんなことがあろうか」と半信半疑、あるいはよく分からないと自分の心に棚上げにしていたあの言葉、実に神の言葉、主の約束のみ言葉が、確かにそうであると、魂に突き刺さって来る時なのである。これなしに、私たちは、「安らかに去って行く」ことはできない。

シメオンは老預言者らしく、今、自分の腕の中に無心に眠る赤ん坊のまことを知らされて、彼のいわば最後の信仰の告白をする。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」母マリアに伝えた言葉だが、まさにキリストとは誰か、何であるかを、見事に語る告白であろう。「反対を受けるしるし」即ち「十字架の主」として、出会う人すべてを、「倒したり、立ち上がらせたりする」、つまりその人のすべてを、「大きく揺さぶり、あるいはなぎ倒し、あるいは立ち上がらせ、再び歩み出す力を与える方、そのような救い主」として、私たちに出会われるだろう、というのである。この方にまっすぐに向かい合うならば、私たちの魂は、母マリアならずとも剣で刺し貫かれるようになる。

そして、この幼児を腕に抱く時には、私たちの「心の思いは」、私のすべては、御子の前に、あらわに、むき出しにされ、全く白日のもとにさらされる。但し、思い違いをしてはならない。私のすべて「心の思い」は、誰か他の人の目にさらされるのではない。ただこの御子との間に明らかとなるのである。幼子を抱く時に、私たちは、自分の心の思いのすべてを幼児に委ねるのである。そして抱く者は抱かれるものとなり、その思いのすべては、主のものとなるだろう、というのである。もし、人が神と出会う場所があるなら、自分の得意な所、光り輝く所、自慢の所でお会いすることはできないだろう。余人には、明らかにすることのできない、暗い魂の奥底に、助けてくれと悲鳴を上げている魂の呻いているその所でしか、汚れた冷たい飼い葉桶に眠られている幼児と、向かい合えるところはないだろう。そこで私たちは初めて、主のみ名を呼ぶことができる。み子の本当の名を呼んで、祈ることができるだろう。

名を付けることについて、こんな文章を目にした。(南日本新聞)「子供のうた」にあった小学2年生の詩に、思わず笑みがこぼれた。祖父宅で猫が4匹の赤ちゃんを産んだ。みんなで考えた名前は「そば」「うどん」「やきそば」「そうめん」という。「みんなめんがすきだから/これにきめたんだ」。子猫を見守りながら、家族でにぎやかに話し合う光景が浮かぶ。名前は生まれて最初のプレゼントといわれる。贈る側にとっても幸せな時間に違いない。猫の誕生を喜ぶ詩は、こう締めくくる。「しっかりおせわするから/大きくなってね あそぼうね」(12月11日付「南風録」)。

私たちもまた、自分の呼名を自分で命名し、自分で呼んで、人生を始めたわけではない。誰かが呼んでくれて、それを聞いて、さらにその名を共に聞いてくださる人々がいて、神もそこにおられて、そこから人生の歩みを始め、今に至っているのである。そのはじめの時がどうだったかは、つぶさに知る由もないが、「しっかりおせわするから/大きくなってね あそぼうね」の声が響いていたのではあるまいか。主イエスもまた、そのようにこの地上での人生の歩みを歩み始められた。私たちとひとつになって、共に歩まれる主の憐れみを、常に覚えたい。