「飼い葉桶の中に」ルカによる福音書2章1~12節

祝クリスマス、この年も、平安の内にクリスマスを迎えられたことを幸いに思う。このクリスマスを皆さんと共に喜び、祝うことができるということも、当たり前のことではなく、何より「命なりけり」という恵みの贈物をいただいているからに他ならないだろう。

幼稚園の頃、クリスマスのサンタ・クロースのことを耳にした。良い子には、夜、密かに贈り物を持ってきてくれる、というのである。自分が「良い子か」も重大な問題だが、それよりかの人はどうやって家に入るのか、煙突から侵入してくる、と聞いて、いたく不思議であった。当時、我が家には煙突があるにはあるが、お風呂の薪釜に繋がっている、それは余りに細い筒であり、到底、絵に描かれるあの太めの身体は入りそうにもないのである。果たしてプレゼントはわが家に無事に届くや否や。そんなことを子ども心に心配していた。

この待降節にこういう文章を読んだ、あるミッション・スクールの先生が綴っている。「人は人生のいろいろなときに、神さまや運命や人生から、特別なプレゼントをもらうことを求めている。それは金品ということに限らず、それまでの生活をリフレッシュし、新しい気持ちで生きていくきっかけのような無形なものをも含めて、特別なプレゼントをもらうことを求めているのだ。神さまからの特別なプレゼントをもらうためには、サンタもそうであるし、子供たちもそうであるように、夜になるのを待たなければならない。象徴的にいえば、自分が光(理想)のただ中にいるのではなく、現実の制約や無力さに苦心し、暗闇の中にいることを自覚し、認めたときに、サンタはその人のもとにやってくるのである。だから、自信満々で順風満帆の人にはサンタはなかなかやってこない。むしろ挫折に苦しむ人の元に、折々にやってきてくれるのである」(聖学院大学子ども心理学科・教員リレーエッセイ「サンタクロースがやって来る」)

クリスマス、即ち主イエスの降誕は、「夜」の出来事とされている。確かに「自分が光(理想)のただ中にいるのではなく、現実の制約や無力さに苦心し、暗闇の中にいる」時に起った出来事と言えるだろう。そのことは最初から、福音書のクリスマスの物語の中に、既に語られていると言える。「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」最初に救い主にまみえた羊飼いは、実に「夜通し」暗闇に置かれた人々であった。しかし「夜」は、羊飼いたちばかりが抱えていた事柄ではなかった。

神のみ子の母、そして父となった若い夫婦、マリアとヨセフもまた、厄介な「夜」と格闘していたのである。4節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。ヨセフもまた身重の妻と、旅の空に歩んでいたのである。しかも自分たちが好き好んで選び取った選択ではなく、ローマ皇帝が属州民から税金を徴収するのに、正確な納税台帳を作るため登録をせよ、という有難迷惑千番な命令を受けてのことである。そしてその挙句「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。これらの描写はすべて、象徴的に「夜」を示唆しているだろう。

ここで用いられている用語で、まず「宿屋」と聞いてどんな場所を連想するか、そんなに贅沢でないにしても、「民宿」くらいの宿であろうか。ここで用いられている「カタルーマ」という単語は、まず「宿屋」とは訳せない、意識してもっと粗末な「旅籠」と訳す学者もいるが、それでも正確ではない。そもそも当時であってもローマとかギリシャの大都市ならば、宿屋も旅籠もあっただろう。しかしベツレヘムには、まずそんな施設はない。この用語は「座敷、居間」と訳した方がより正確である。古代では、皆、好き好んで旅などしなかったが、やむなく旅する時には、知人友人等のつてを何とか頼って、頼み込んで一夜の宿を借りるのが常道である。素より急なお産に対応できるような医療施設がある訳ない。だから「彼らの(「泊まる」は補足)場所はなかった」と語られるのである。

身を置く「場所」がなかった。この「場所」という用語も興味を引く単語である。「トポス」というギリシア語で「場所」を意味するが,「アリストテレスや古代修辞学では,議論に関係した事柄や話題を発見すべき場所(論点,観点)を表した語」、であると辞書は説明している。つまり「場所がない」とは「起きて半畳、寝て一畳」という空間のゆとりを表すのではなくて、神の子であるという証明も論拠をそこに見出せない、およそキリスト、救い主にふさわしい場所ではない、そのような人が居るべきところではない、という意味合いを表現しているのである。だから標準訳聖書は「Room」と訳し、それを踏襲した口語訳聖書は、「余地」という訳語を用いたのである。

一般にその単語は「部屋」という意味でよく用いられるが、その語源は、四角い箱の中に閉じ込められているという様子を表し、同時にチャンスという意味で使うこともある。たくさんの可能性が四角い箱の中に閉じ込められているという状態で、機会を封じ込まれているということを示している用語だという。もしイエスが生まれたのが、壁で囲まれた大きな宿屋や宮殿だったとしたら、当時もっとも卑しい階層とされていた羊飼いたちは、その門の前まで来て、門前払いですごすご引き返したことだろう。

私たちはつい、人の目を慮って、自分の周りに権威や名誉などの壁を張り巡らそうとするが、その壁は同時に、自分と周りの人たちを切り離す隔ての壁でもある。壁を造れば、敵は襲ってこないだろうと。ではそれで安心できるかと言えば、今度は、自分自身で造った壁に閉じ込められて、思うように息が出来なくなってしまう。安全かもしれないが、安心はできない。そんな人間の心の真実を、神はよくご存じなのだ、ひとり子イエスをあえてまったく隔ての壁とてない、家畜小屋に誕生させられた。誰でも会いに行ける場所、そのこと自体が、人類に対する一つの福音、喜びの知らせだと言っていいだろう。わたしたちの下にやって来られた神の子は、羊飼いたちでも簡単に近づける赤ん坊であり、どんな人でも、気後れせずに大胆に近づける場所におられるのである。

赤ん坊である主イエスには、権威も、名誉も、財産もなかった。幼子イエスの周りには、人々を遠ざける壁が何一つなかった。たとえ社会の片隅に追いやられ、すべてを失い、人から捨てられたとしても、暖かく受け入れてくださる御子。それが、イエス・キリストなのだ。わたしたちは、安心といいながら自分の周りに隔ての壁を築いていないだろうか。必要なのは、壁を作ることではなくて、飼い葉桶の中に眠っている幼児の所に、行くことなのだ。この方のもとには壁はないが、大いなる安らぎがある。赤ん坊は眠っている、これほどの安息、平安があるだろうか。この赤ん坊こそ、神からの尊い贈りものなのだ。

最初に紹介したエッセーの続きをもう少し。「(神の)プレゼントの届き方に決まったパターンがない。煙突から入ることは知られているが、その入り方は謎であるし、煙突がない家屋にもまったく支障なく入ってくる。そこには個々の家屋の持つ構造の違い(もっといえば個々の人間の心の構造の違い)を尊重し、個々にユニークに対応する神さまの知恵がうかがえる。もし、未来に希望が持てず、うつうつとクリスマスの季節を迎えている人がいたとしたら、神さまからの特別なプレゼントをもらうチャンスであるかもしれない。それもそのプレゼントは思いも知れないユニークな方法やタイミングでやってくるかもしれないのである。繰り返しになるが、サンタクロースは、昼間にやってこない。夜にやってくる。それも、光り輝く姿ではやってこない。暗闇に紛れてこっそりやってくるのである。それも一軒一軒家屋の構造にあわせて、入り方を工夫してやってくるのである」。

確かに毎年、毎年、神は、主イエスを通じて、いろいろな贈り物を、私たちにくださる。目に見える物もあるし、目に見えないものも、たくさんいただく。時には、その時にはあまり頂戴したくないような、辞退したいような贈り物もあるが、それが後に、光り輝く祝福への招きであったことが、おぼろげに分かったりする。しかしそれは「夜にやってくる。それも、光り輝く姿ではやってこない。暗闇に紛れてこっそりやってくる」、その贈り物を、心に温めながら、また許される時を歩んで行きたいと願う。