祈祷会・聖書の学び ヨハネによる福音書13章1~11節

受難週の木曜日は、伝統的に「洗足木曜日」と呼ばれる。主イエスが十字架に付けられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の際に、弟子たちの足を洗った故事を記念してのことである。この事績を継承して、カトリック教会では、毎年、神父が主イエスの代わりに、教会員の足を洗う儀式を実際に行っている。とはいえ、教会員、全員の足を洗うのは大変であるから、その年に足を洗ってもらう役の人が事前に選ばれて、その儀式を取り行うことになる。その役を仰せつかった人は、やはりぎこちなく、遠慮がちに神父さんに洗ってもらうのだという。こんなふつつかな信仰の者の足など洗っていただいて「申し訳ない」という気持ちも働くのだろう、洗い終えると、皆、すぐに足を引っ込めるそうだ。

「足を洗う」という慣用句について、語源辞典はこう説明する。「仏教から出た言葉。 裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられるようになった。 その意味が転じ、現代では悪業・正業に関係なく、職業をやめる意でも使われるように なった」。

ところがそういう宗教的な意味の他に、この国では、江戸時代に「洗足の儀式」なるものが行われていたという。「遊女」や「物乞い」が、常人(普通の人)に戻ろうとするとき、結構な金銭的負担をした後に、元締めやお頭、関係者の前で、たらいに水を汲んで足を洗う、「洗足」の儀礼をもったというのである。このしきたりを、福音書の伝える「洗足」の故事に遡らせる見解もある。キリシタンの時代の名残ではないか、と。

聖書の「洗足」の習慣について、当時の履物は今で言うところの「サンダル」のようなものだったから、一日、それで外を歩き回って来ると、ほこり道で足が汚れる。誰かの家に招かれたら、家の中に入る時、まずほこりだらけの足を洗って、中に入る。それを行うのは「奴隷」の役割であった、と説明される。主イエスは、弟子に対して奴隷のように謙遜に仕えた。だから教会では、皆、この主イエスのふるまいに倣って、誰が偉い、一番だなどと言わず、皆等しく仕え合うべきである、と訓示がなされる。「洗足」が「奉仕」の比喩として語られるのである。

しかし「洗足」を「奴隷の仕事」、とただ説明するには違和感がある。主イエスの時代、奴隷を使用人として抱えて暮らしている裕福な家がどれほどあっただろうか。キリスト者の多くは、貧しい人々であった。社会構成上95%の住民が「貧民」である。日常の生活そのものが、奴隷のような生活なのだ。他人の足、己の足を洗うことは、日々の生活の中で至極、当たり前のことなのである。それを「謙遜」と例えるのは、金持ちの上から目線、また価値観であるだろう。

主イエスが弟子たちの「足」を洗った、ということについて、なぜ「足」なのか、と問うてみたい。はいはいしていた子どもが、生まれてから一年ほどすると、立ち上がり歩き始める。他の動物は、皆、生まれたらすぐに立ち上がり、歩き、走り始める。そうでないと敵に狙われて生存できないからである。人間はすぐに立てない、歩けない。それは無力な時代の保護を前提として、生まれて来るからである。人間は皆、未熟児として生まれるのである。動物の足は強さの象徴、人間の足はある意味では、弱さの象徴である。初めて立ち上がった時の、子どもの足のおぼつかなさはいかばかりか。最初に立ち上がる時は、子どもはただ立ち尽くすだけである。はいはいの時と、立ち上がった時とでは、目の高さがまるきり違うのである。

また、老いは足から来る。60歳も過ぎると、体重は変わらなくても、足の筋肉が落ちて細くなって来る。足のだるさ、鈍い痛みも感じる。なるべく歩くように努めていても、筋力は落ちるばかりである。ギリシア神話のスフィンクスの謎「朝に4本足、昼に2本足、夕べには3本足の生き物とは」、のリアルさが、徐々に感じられる年齢が還暦過ぎなのである。二足歩行をすることで人間は文明を発展させた。しかし、それは人生のわずかな束の間である。心もとない幼子の足、ふるえる年老いた者の足、それぞれ足にこそ、人間の生きる真実は現れているのだろう。

「足」という言葉の語源は、「悪し」あるいは「端」から来ているという。汚く汚れるから悪い、不潔だ。また人間の端っこの部分、中心でないから余計、という意味合いもあるだろう。あまり良い意味から生まれた言葉ではない。しかし聖書は、その足について、こう語る。イザヤの言葉「いかに美しいことか、山々の上で、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ書52章7節)。その汚い脚によって、神の福音ははるばると持ち運ばれ、もたらされるのである。神はそのみ言葉のために、人間の汚い脚を用いられるのである。

ヨハネ福音書の「洗足」の記事も同じであろう。8節「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。」。「足だけ洗えばよい」。最も汚れる足に、その一つひとつに主は目を留められ、洗われ、清くされる。どんなに汚れていても、清くされない者はない。「あなたが洗ってくださるのですか」、ペトロの言葉は、私自身の言葉でもある。「地に足が着く」とは、地道なことの喩えだが、だからこそ最も汚れる処でもあり、最も人間らしいところでもある。その人間の一番の本質が表れているところに、主イエスは目を注ぎ、自らの手で触れ、洗ってくださるのである。しかもその中には、ペトロを初め十二人、あのイスカリオテのユダも、入っている。十字架の恵みのここに極まれり、なのである。

自由律俳句の人として知られる尾崎放哉の代表句、「足のうら洗えば白くなる」、この句に詠まれる「足の裏」は、人間の身体の中で最も汚れている部分であろう。のみならず実際の泥汚ればかりでなく、心や精神、生き方までを指しているだろう。誰しも、汚い足の裏を持ちながら、疚しさを抱えて生きているのである。どれほど汚く汚れていても、それでも足の裏は「洗えば白くなる」のである。洗った後の「足の裏」の白さに驚くのである。主イエスは、自らの御手をもって、弟子たちひとり一人の足を洗ってくださった。汚れたままで、終わってしまわない、一念発起して精進潔斎して、足を洗うのではない。ここに私たちの生きる安心と希望があるのではないか。