「キリストに希望を置いて」エフェソの信徒への手紙1章3~14節

今年も季節は入梅となり、雨降りの天気が続いている。じめじめした季節で人はとかくうっとうしく感じるが、このじとじと雨の中を紫陽花は鮮やかさを増し、その枝にはカタツムリが元気に角を挙げて喜んでいる。心の中まで黴臭くならないよう、用心したい。

さてこの国初の法学者のひとりとして、明治から大正期の法曹界の担い手であった穂積陳重(のぶしげ)氏、この人の奥様は現在の一万円札の顔、渋沢栄一氏の息女だという、彼の著作で巷間によく知られた『法窓夜話』(1916年)の中に、こんな話が紹介されている。

「一五八四年ヴァランス(Valence)において、霖雨(りんう)のために非常に毛虫が涌いたことがあった。ところが、この毛虫が成長するに随ってゾロゾロ這い出し、盛んに家宅侵入、安眠妨害を遣るので、人民の迷惑一通りでない。遂には村民のため捨て置かれぬとあって、牧師の手から毛虫追放の訴訟を提起するという騒ぎとなり、弁論の末、被告毛虫に対して退去の宣告が下った」。「原始社会の法律を見るに、禽獣草木に対して訴を起し、またはこれを刑罰に処した例がなかなか多い。有名なる英のアルフレッド大王は、人が樹から墜ちて死んだ時には、その樹を斬罪に処するという法律を設け、ユダヤ人は、人を衝つき殺した牛を石殺の刑に行った。原始時代においてのみならず、中世の欧洲においても、動物に対する訴訟手続などが、諸国の法律書中に掲げられてあること、決して稀ではない」と論じている。

古くから人間の一番の罪は、「高慢」であると言われる。人間は自分のことを棚に上げて、とかく他を裁き、「神のようになる、神になりかわる」という罪を犯す。毛虫に有罪宣告をし、退去命令を下すなど、現今ならば昔々の無知な話として一笑に付せられようが、それでも今でも同じような誘惑に引きずられているのでは、と思わされる。未だに「王様になりたい」と本気で思っている人がいるようだ。「裸の王様」が関の山だろうが。

さて、今日の聖書個所は、エフェソの信徒への手紙の冒頭部分、1章から話をする。今朝は教会の暦では「三位一体主日」と呼ばれる。前週、私たちは「聖霊降臨日(ペンテコステ)」を祝った。最初の教会の誕生を覚えて、喜びの礼拝を守った。今も、教会はただ聖霊の働きによって立てられ、聖霊の働きによって動き新しくされて行くのである。「三位一体」という教理は、新約聖書の中に、このエフェソ書においても、まだ明確な形で理論化されていないが、今日の個所を読むと、神とキリストと聖霊の関係を、不可分に、相互に密接に結びついている事柄として捉えていることが分かる。やはり父なる神、その独り子、そして教会に働く神の霊、聖霊、この3つがどのように関係しているのかが、教会の内外から問われたのである。古代においては、「真理」とは理屈がきちんと一本に通っていることを意味していたから、これら三者の事物を橋渡しし、関係つける論理がどうしても必要なのである。

エフェソの信徒への手紙は、新約の諸文書の中で、最も後期に記され、おそらく1世紀末から2世紀初頭にかけて記述されたものであろうと考えられているが、この時代になるとキリスト者たちは、最初期の「ユダヤ教の分派(ユダヤ教の枠内)」という自己意識はすでに遠のき、独自の宗教思想の上に、自分たちの信仰が立っていることを自覚し、そう語るようにもなっていたのである。まだおぼろげではあるが「三位一体」思想が意識されてきた、というのは、自分たちのアイデンティティが確立されたことの証左であろう。即ち、自分たちが何を信じているかを語ることは、自らが誰であるか、素性を明らかにすることにつながり、キリスト者とは何者であるのかが、強く意識されるようになったからと言えるだろう。自分の信じるものを公に表明することは、自分の正体(らしさ)を明らかにすることでもある。だから本当の人間の関係は、お互いに信じるものが何かを知ることによって成り立つとも言える。あやふやのままで、得体のしれない者どうしでは、やはり関係を結ぶことは困難であろう。では、今この国の人々はどのように信じるものを言い表すのだろうか。「わたしはここに立つ」と言えるものを。

今日のテキストは、キリスト者が何者であるのかを語っているのだが、まことにありがたい言葉が、いくつも連ねられていることで、何となく面はゆい気にさせられる。3節「(キリスト者に)天のあらゆる霊的な祝福」を満たしてくださった。4節「わたしたちを愛して、選んでくださった」。5節「神の子にしよう」と定められた。ここは若干説明が必要であろう。「神の子」とは正確には「神の養子」、という意味で、完全で清く罪を犯さない、過ちを犯さないという意味での神の子というのではない。神の方から育ての親のように、正式な手続きを踏んで、養子縁組してくださったということである。高貴な血統ではなく、力ある身寄りもなく、血のつながりもない、どこの馬の骨とも知れぬ輩を、自分の実の子として受け入れ、養ってくださる。良い子だから、悪さをしないから、優秀だから養子にしよう、というのではない。「誉めて育てる」、そんな風情なのか、かえって「愚かな子ほどかわいい」というニュアンスなのだろうか。

つまりこれらの誉め言葉が語られるのは、イニシアティブはすべて神にあり、人間の個人的資質や能力、努力ややる気が問題なのではない、と主張しているのである。どうも人は、他の人の悪い所ばかりが目に付いて、中々、その人の良いところは見えないものだ。「誉める」ということは、その人の丸ごとを見て知った上でなければ、できない評価なのである。だから「誉める」ことのできる人は、大げさに言えば、神のまなざしを持っている人とも言えるだろうか。

さらに7節「罪を赦された」、8節「すべての知恵と理解と与えて」、9節「秘められた計画、神のミステリ」を知らせ、11節「約束されたものの相続者」としてくださった、というのである。「約束されたもの」とは、共観福音書では「神の国」と呼ばれ、ヨハネ福音書では「永遠の生命」と呼ばれる、神が信じる者に与えて下さる、大きな賜物(プレゼント)のことであるが、それは神が共に居られ、私の近くに出会ってくださる、ということである。これ以上の恵みはないだろう。このようにエフェソ書は、言葉を尽くして、微に入り細に入り、キリスト者に与えられる神の「特典」を列挙するのである。

ポイ活が強調される時代である、「チャンス、今なら、何千ポイント進呈」という顧客獲得のための惹句(アピール)をよく耳にするが、これほどまでに恩恵を施してくれるお誘いは、聞いたことがない。なぜ神は人間に、こんなにも身に余るような恵みを注いでくださるのか。あやしいではないか。何か裏があるのではないか。先ほど「私の個人的資質や能力、努力ややる気が問題ではない」、と言ったが、普通は、それに対する代償、対価を払わねばならないのが、この世の常ではないか。神の大盤振る舞いの裏にあるもの、とは何なのか。

今日のテキストには、神の恵み、大いなる慈しみの根拠、証拠がはっきりと語られている。しかも、各節すべてにわたって、しつこく繰り返し、これに拘って主張するのである。しつこいほどに繰り返されている言葉とは何か。もうお分かりだろう。「キリストにおいて」あるいは「キリストにあって」という言葉である。神からのどのような恵みも、慈しみも、恩恵も、「キリスト」抜きにはやって来なかったし、今も「キリスト」抜きにはもたらされないと主張しているのである。どんなに尊いことも、価値あることも、美しいことも、キリストがそこになかったなら、すべては空しい、というのである。

三位一体というけれど、私たちはどこから見えない神を知るのか、どのようにして風のような聖霊の息吹を知るのか。それはすべて主イエスを通してではないのか。主は、ナザレのイエスと言われるように、マリアの息子として生まれ、ガリラヤのナザレの大工の子として育ち、成長し、まことの人として、私たちの間にその人生を歩まれたのである。時に飢え渇き、怒り、涙を流され、痛み、苦しまれた。十字架に付けられ神への絶望の叫びを上げられ、息を引き取られた。そのまことの人によって、その言葉によって、その人と共に食い飲み、語ることによって、私たちはまことの神を知らされたのである。主イエスを置いて他、神や聖霊にふれることはできない。

最初に言及したお話、その結末がどうなったか。人間は勝手なもので、自分の見たい者しか見ようとしないし聴きたいものしか、聞こうとしない。自分に不都合であるから、不快であるからと決めつけて、それで神の如くにすべてのものを裁こうとするのである。この梅雨の季節、牧師館の壁には、無数のナメクジが張り付き、子どもの友のダンゴムシが、たくさん家の中に潜り込んでくる。人の裁きによって断罪された被告、毛虫たちはどうなったのか。「ところが、被告はなかなか裁判所の命令に服従しない。これには裁判官もはたと当惑し、如何にしてこの裁判の強制執行をしたものかと、額を鳩(あつ)めて小田原評議に日を遷(うつ)す中に、毛虫は残らず蝶と化して飛び去ってしまった」。

人間の勝手な議論をよそに、いつか毛虫は新しい命をまとって、蝶となって飛び去って行った、という。今日のテキストの「キリストにおいて」と繰り返される言葉の中に、結論として語られている章句が見える。12節「以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」。人間の希望はすぐに周りの状況が変わることで、しぼんだり費えたりする。それですぐに絶望だと叫ぶ。本当は人間の内には希望はないのである。毛虫が死んだようになって、やがて蝶に変わる、これは復活の喩えでもあろう。主イエスのよみがえりのその時を知る者は、誰一人いなかった。それでも神の生命の力は、人の世に現れるのである。ここに「キリストの希望」がある。神のドラマに付き合うのは厄介だ、人間がもう駄目だと思う所に、キリストの希望が現れる。人はそれをただ驚き、賛美し、栄光を讃えるのみであろう。