しばらく梅雨空だったと思えば、再び灼熱の陽気が続いている。雨降らなければ降らないで、干ばつの心配、降れば降ったで、洪水の心配、さらに南の地方では強い地震も続いている。心配は尽きない。気象や自然の変動の極端さは、私たちの不安を否が応でも高める。「明日は我が身」とも思わされる、何ができる訳でもないが。
さてここ数十年に起った大規模な自然災害、あるいは戦争や紛争などの悲惨な出来事を背景に、一冊の著作が人々の心を捉え、巷間の話題ともなっている。この国でも阪神淡路大震災を起点として、その後に続く複数の大災害(未曽有の)の辛い経験により、この本に注目と関心とが強く向けられたと言えるだろう。
こんな書評がある、「大きな災害にみまわれた土地ではつねに、ケチケチした話と景気のいい話が交錯する。詐欺師や火事場泥棒、集団の暴動、どさくさまぎれに自己利益をかすめ取ろうという話がある一方、恩恵や救い、ほどこし、なぐさめにまつわる美談が生まれる。この傾向を集約しテーマとして扱い、近年、話題になったのがレベッカ・ソルニット『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(高月園子訳/亜紀書房/2010)だった。大地震、大洪水、大火災、巨大テロといった悲惨な出来事の直後には、互いにひとびとが助け合い、援助しあう「ユートピア」が、ごく短期間だが必ず生まれるというのだ」(大森葉音)。
かの著作に、その実例のひとつとしてこう記される、「九・一一の直後には、消防士、警官、役所の職員、ボランティアの職員など、大勢の公僕が集まって、機能不全に陥ったシステムを扱った。市民自身は、港湾局の『その場にとどまるように』とのアドバイスに逆らって貿易センタービルから逃げることに始まり、大規模な救助活動の組織化にいたるまで、大きな決断をした。ペンタゴンが対処できないでいると、市民は九三便の中で劇的なアクションを起こした。おそらく乗客たちの間で迅速な同意に達し、行動を起こしたのだろう。それは単なる相互扶助と利他主義の瞬間ではなく、ユニオンスクエアや、診療所や、仮設キッチンや、ボランティアたちの間に存在した直接民主主義の瞬間でもあった。人々は何かをしようと決断し、たいていは見も知らぬ人と力を合わせ、実行し成功した(314~315頁)」。このような極限状況の中での人間の支え合い、こころの共動についてどう思われるか。自分は積極的に行動できるか、臆病に立ち尽くすか、のどちらかではない、状況が人間を押し出すのである。状況の力が、人間を駆り立てるのである、良くも悪くも。そしてその「ユートピア(どこにもない場所)」は、文字通り、永遠に続くわけではないのだが。
さて今日は、コリントの信徒への手紙二の8章からお話をする。今日のテキストは、極めて教会の具体的な問題が語られている場面である。それは「献金」という事柄である。教会にとって、これほど切実な問題もないだろう。どこの教会の会計役員も、本当に去年今年問わず毎年、心配や痛みを感じながら、務めを果たして下さっている。そして、教会の皆さんがたも、その「痛みや心配」に決して無関心ではなく、思いを共にしてくださっていることをいつもひしひしと感じさせられている。
2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」。「苦しみによる激しい試練」という表現が指し示す状況について、具体的には不明であるが、一般的には教会に向けられる「迫害」、あるいは干ばつ等の「自然災害」を示唆しているであろう。マケドニアの教会の人々は、何の苦労もなく安穏に日々を過ごしていたのではない。自分たちもまた酷い現実の状況に苦しむ中で、パウロの要請、具体的には「募金の提案」を、どのように受け止めたのかを伝える言葉である。
まさに教会とは何かが証されている。しかも自分の教会を維持するための会計ではなくて、エルサレム教会への貧しい人たちを支援する募金活動、もう少し言えば、この時パレスチナでは、大規模な飢饉に悩まされ、そこに生きる人々は食を始め、すべてに事欠くような状況だったらしい。この時、エルサレム教会救援のための募金を、パウロは訴えていた。このエルサレム教会救援募金への協力を、パウロはコリントの教会の人々にも求めたようだ。10節に「昨年から云々」とある通り、大分前からその募金活動は続いていたらしい。しかし、「今、それをやり遂げなさい」とパウロが勧めているように、当の募金活動は現在、停滞、中断という状態にあったようなのだ。なぜ停滞、中断したのか。
その理由は何か、これもまた悲しいことに、人間的な側面からである。苦しみを共にする、とんでもない苦難が人をひとつにして、心を結び付ける、災害ユートピアの実現である。ところが、ある程度の時間が経つと、避難生活の疲れ、援助の遅延、行政の失策等からやり場のない怒り、不満が噴出。住民同士のトラブルなどが目立ち始め、亀裂が生じて来る。コリントの教会でも同様に、募金の呼びかけ人、パウロに対する不信が生じたのである。「あれは顔を見れば募金、募金とお金の話ばかりする」という具合、さらに13節「他の人々には楽をさせて、自分たちばかりに苦労をかける」という批判・非難も噴出して来たのである。自分たちばかり苦労、大変な思いをしている。他の人は楽をしている。
どんなに善意からのことであろうと、お金をめぐってこのような批判、不満はどこの領域でも湧き出てくるものだ。現代の教会でも、こうしたことが教会の中で取りざたされ、ぎくしゃくするのも珍しいことではない。「神と富に兼ね仕えることはできない」とイエスは言われたが、一般にどうも信仰とお金は仲が悪い、相性が悪いようにみなされている。しかし同時に「あなたの宝のあるところに心もある」と主は言われた。これは実にリアルな言葉である。とかく仲が悪いと思える者どおしは、実は似た者どおしであり、親密な間柄にあるものだ。
募金を募り、捧げる、多くは直接に顔を合わせたこともことも、話したこともない、相手がどのような暮らしをしているかも、詳しくは分からない、そのような中で、しかし絶えることなく小さなサポートを続ける。これはまさに「見えないものに目を注ぐ」という信仰的な目、まなざしが必要である。私たちの教会の、愛の業、対外献金の働きも、この教会の始めからの、極めて信仰的な取組みから発しているものである。教会はどこかで外の世界に開かれ、つながっていなければならない。そうしないと主の教会として歩めない。その姿勢が募金活動を生みだした。以前、牧していた教会で、非常に高齢の方がその責任を担ってくださっていた。ストイックな方で、自分の昼食を抜いて、その分のお金を献金する、というようなことをしたから(おそらく貧しい人の痛みを共有したいということであったろうが)倒れるということもあって、はらはらさせられた。そこまでやるかどうかはともかくとして、世界のことを自分のこととして覚えるというのは、実に「見えないものに目を注ぐ」、神への視点なくしてはできない行動である。
ここでパウロは募金が、単なるお金の問題を超えて、自分たちの生きる姿勢、信仰の問題であることを語っているのである。10節「この件について」この翻訳はよくない。単なる募金活動という風に読めてしまう。そうではない。これは「イエスの愛の恵み」即ちあなたがたのために主は貧しく、低くなられた、十字架の死に至るまで、この主イエスの出来事を今、あなたはどう受け止めるのか、とパウロは問い質すのである。注意すべきは、11節、12節に繰り返し、ひとつの言葉が語られていることである。「今、持っているもので(やり遂げなさい、受け入れられる)」。昨日持っていたもの、ではない。明日持つだろうもの、ではなく、問題は今日である、今もっているもの、今のわたしなのである。信仰は常に「今」を問題にする。信仰は悔い改めと言われる。魂の方向転換である。それはどんな時であれ「もう遅すぎる」ということはない。しかし、「今」しないならば意味はない。そういうものである。
『災害ユートピア』の中に、ニカラグアの詩人のジオコンダ・ベリの言葉が紹介されている。1985年9月19日にメキシコで発生した大地震、一万人の人々が犠牲になったと言われる、の際に語られたという、「自分の人生が、たった一夜、地球が揺れただけで大きく変わってしまうことを悟ったならば、『だからどうだっていうの?わたしはいい人生を送りたいし、そのためなら命を危険にさらしてもかまわない。所詮、一夜のうちに失いかねない命ならば』と思ってしまうのです。いい人生を送らなければ、生きている価値はないと。それは大惨事の間に誰もが体験した、深いところで起きた変化でした。臨死体験のようですが、この場合、多くの人が同時に体験しました。それは人々の行動に大きな違いを生み出します。そういった体験は、人々の中から一番いい部分を引き出すのです。人々が自分のことだけを考えるのをやめる場面を、わたしは何度も目撃しました。何かがきっかけとなり、人間は突然、仲間のことや、集団のことを考え始める。それが人生を意義深いものにしてくれるのでしょうね」(「災害ユートピア」213ページ)。
私たちはこのことを、主イエスのみ言葉から学び、彼の十字架への歩みによって目の当たりにしているのである。大きな同じ苦しみを味わっている者どうしも、その絆はもろくいつしかほどけてしまうだろう。しかし、主イエスは私たちの間にあって、よみがえりの命という絆となって、何度も私たちのもとへと立ち帰ってくださる。苦しみの中に、主イエスの死と復活が表される、ここに私たちの希望がある。