「あなたに向かって」 創世記12章1~9節

「後悔、先に立たず」、と言われる。皆さんは、おそらく全員「後悔」した経験をお持ちだろう。そこでこういう文章に出会った。人間に後悔は付き物である。それはどんなことですか? と問われれば、誰しも間髪を入れず一つや二つは答えられるはず。いや、思い当たることが多すぎて困惑するかもしれない。米国の心理学者が大学生に後悔について質問してみた。すると「試験で不注意なミスを犯した」「酔っぱらって羽目を外した」「車をぶつけてしまった」などの回答が目立った。つまり自分が過去にやってしまったバカなこと、失敗した経験を挙げる傾向が強かった。ところが同じ質問を老人ホームのお年寄りに実施してみた。すると結果はどうだったか。意外にも「世界中を旅行したかった」「サルサダンスを習っておけばよかった」「何か楽器を弾きたかった」など、学生とは対照的、過去にやらなかったことを後悔したという。「やった後悔よりやらなかった後悔」。人生経験が豊富なお年寄りが出した結論である。そうと分かれば、自分に新しいチャンスが訪れたとき、しかしその判断に迷っているとき、どう行動すべきか答えは明白だろう(福井新聞2019.10.13)

今日の聖書個所は、創世記12章「アブラハム物語」の冒頭である。アブラムの旅立ち、その、そもそもの発端を記す個所である。それまでハランに住んでいたアブラム一家、決して「波乱」に富んだ生活ではなく、平穏無事な生き方をしていたようである。しかし年を経て、高齢の父親のテラが亡くなる。すると彼は突然、カナンに向けて旅立つのである。家族にとって係累の全くない「カナンに、行く」と突然宣言する父親に、家族は「かなわんなあ」と思ったに違いない。なぜならこの時、アブラムは75才、年齢のことを「齢」というが、それは「弱々しく見える」と言う意味から来ている。そんな年齢で、彼は生まれて初めて自分の「旅」を始めるのである。「やった後悔よりやらなかった後悔」という積年の思いが噴き出たのであろうか。

アブラムの旅立ちについて、聖書はその理由をはっきりと告げている。1節「主はアブラムに言われた」、創世記1章で繰り返される文章の一つ、「神は言われた、そのようになった」という言葉が、ここでも再び繰り返される。神の言葉は、出来事を起こされる、言葉だから目には見えないが、空しく中空に消えてしまうものではない。「一たび語られれば、空しくは帰らない(イザヤ)」のである。アブラムの旅は、神の言葉に始まるものであった。

その神の呼びかけをもう少し、細かく見て行こう。「あなたは祝福の源となる/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う」。「祝福」と「呪い」が語られる。古代の宗教は、この2つによって成り立っていた。しかし本来、これらは一つなのである。生命に働きかけること、である。生命の繁栄を祈願し働きかければ「祝福」となり、生命を弱めるような働きを願うと「呪い」と呼ぶ。田畑の実りのために「祝福」し。野獣の脅威には「呪い」をかける。ただ生命の向かう方向が異なるだけである。現代人も気づかすに同じことをしている。スポーツの試合などで、贔屓のチームには、声援を送る。相手のチームがミスを犯すと、冷やかす。これは祝福と呪いの、現代的姿である。人は「方向や方角」を敏感に意識する。それによって生命が生き生きしたり、欠乏したりする。アブラムは、この旅によって、初めて自分の進むべき「方向」、生命の方向を獲得したのである。だからかわいい子には旅をさせよ、神にも十分、お分かりなのである。

さて、そこで「祝福」と「呪い」なのだが、つい先日、この国の有名な女優氏が逝去された。その生前の思い出が、いろいろに語られたが、その方に纏わる思い出として、「ナスの呪い揚げ」の話題が語られていた。あるドラマでこういう場面が演じられる「主人公は、自分の誕生日パーティーに来ない不届き者を、“ナスの呪い揚げ”に処するためリストアップを始める。その数は膨れ上がり384人に。しかし相手を呪うには“一人につきナス一本を揚げて食べねばならない”と知り、主人公は泣く泣く30人にまで絞り込む。そうして迎えた誕生日当日、うってつけの雷鳴が轟く中、いよいよ陰惨な『呪い揚げの儀式』が始まる」。そんなにも呪いたい人間がいるのは、大変すぎる。

この神の言葉を日本語に翻訳すると、少々微妙な問題が生じる。「祝福する人」「呪う者」の数量なのである。どちらかが単数で記され、どちらかが複数で語られる。どちらがどちらだと思うか。「祝福」が複数、「呪う」が単数。確かに、すべての人が自分に好意を持ってくれる訳ではない。自分を嫌う人間も必ずいることはいる。好き嫌いは必ず付きまとう。しかし「祝福する」、つまり共感してくれる人の方がずっと多い、と「単複」によって暗に示そうというのである。

もうひとつ、より大切なのは、非常に訳しにくい、訳せないような微妙な言葉が、この中に含まれていることである。1節「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。この文章の中に、「あなた自身に向かって」というニュアンスの言葉が、実は添えられているのだが、伝統的に訳されない。神は自分を信じる者を、常に新しい目的地、約束の地への旅へと誘う。人間には向かうべき方向が必要だ。但し、神の命じる「旅」は、「カナンの地」という「外」に向かっての旅であるばかりでなく、自分の内側に向かう、「内面の旅」でもあるのだ。この当たりのことを、森有正と言う思想家は、深く洞察したことで知られている。

彼はこう語る「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれ憚らず喋ることの出来る、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことは出来ない。」

この思想家も人間なのである。ある講演でこう語った。昨夜、宿で出された料理がおいしくて、ついつい食べ過ぎて、血圧が異常に高くなり、もう少しで生命が危うかったと告白している。この人も「醜い考え」「秘密の考え」「ひそかな欲望」「恥」を気にし、それに捕らわれていたのだろう。「他人に知らせることのできない心の一隅」とは、詩的な表現だが、まさに本音が籠っている言葉だろう。

しかしそうした「心の一隅」で、「そこでしか人間は神様に出会うことはできない」、皆さんはどう考えるか。皆ひとり一人、そういう恥ずべき心の一隅があるのではないか。「今までに罪を犯したことのない者が、まず石を投げよ」と主イエスが言われ時、年長の者から始めて、一人二人立ち去り、女と主イエスの他、誰もいなくなった、という。主イエスは女に問う「あなたを罰する者は誰もいないのか」、女が「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われる「わたしもあなたを罰しない、お帰りなさい」。このヨハネ福音書の「罪の女」の逸話は、まさに私たちがどこで主イエスとお会いできるのか、どこで神を信じることが出来るのかを見事に示す、たとえ話のようであるだろう。

もし自分の強さや優れたところ、完全で神と繋がるとしたら、過ちや失敗や罪を犯す時には、もはや神と私とは、全く関係がなくなってしまうだろう。齢を重ね、文字通り「弱々しくなった」時には、もはや神も仏もなくなるのである。神は観念や思想、ましてや道徳で出会える方ではない。「まだ知識がないから、信じられない」とは、「心の一隅」を主イエスに開いていない言い訳、つまり思い上がっているのである。私たちが自分でもどうすることも出来ない心の一隅を、誰よりも深く知り、嘆き、そこに語りかけて下さる方である。アブラムの旅は、正に、アブラムの心の一隅に向かう旅でもあった。

ある牧師がこのような証をされている。「(牧師の家庭に)東京の教会で生まれた私は、教会から離れるために、わざわざ京都の大学に行き、生まれて初めて日曜日に教会に行かない生活をしてみました。しかし、それは全くつまらないものであったし、様々な面で行き詰って、もう生きていく目標も気力も何もないままに、クリスマスから正月にかけて実家である教会に帰省しました。そして、クリスマス礼拝で高校生の女の子が洗礼を受ける姿を見、その女の子が『信仰は決断だと思う』と言うのを聞いて、どうしても決断できない自分の惨めな姿を見せ付けられて打ちのめされてしまいました」。

しかしこの方は、高校生の言葉を、「神の呼びかけ」として聞くのである。牧師に頼み込んで、一週間後に無理やり洗礼を受けたというのである。「他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない」。アブラハムばかりでない、ひとり一人、私もあなたも、そこでしっかりと神に出会うのである。