「群れはもはや」 エレミヤ書23章1~6節

こんな新聞コラムが目についた。上は洪水で、下は火事、これなあに。お決まりのなぞなぞも近ごろは、「お風呂」という答えが、子どもから出てこないと聞いたことがある。そんな風呂に入ったのも風呂自体を見たことも、なるほど遠い昔のことである▼気候変動が進む現代ならば、答えは「地球」だろうか。北半球の街に水があふれ、南半球の森では火が燃え盛っている。海外から伝えられてくる惨状とニュースに、そんな気のめいる答えを思い浮かべた▼イタリアのベネチアが高潮で水没している。ここ五十年で最悪の水位という。死者が出て、建物も大きな被害を受けた。「いずれ住めなくなるのではないか」。住民の不安の声が報じられていた▼ベネチアは、過去にも水、に漬かってきたとはいえ、近年は水害の多さと悪化が度を越しているようだ。政治家や専門家が、気候変動を原因の第一に挙げている▼オーストラリアの東部で続く森林火災も最悪のレベルという。複数の人が死亡している。森林火災を何度も経験してきた国であるが、近年は夏の猛暑が続き、今年は乾燥する季節の到来が早いようだ。専門家らが、ここでも地球温暖化に原因を求めている▼自然災害の原因が気候変動であると証明するのは簡単ではないだろうが、相次ぐ災害で、疑いは強まっていよう。あちらに洪水、こちらに火事。そんな地球にしてはならないという思いも強まる。(東京新聞2019年11月15日付)

今日は、収穫感謝礼拝を守る。今年は、というか今年も酷暑の夏であったし、大きな台風が襲来した年でもあった。気候の異常不具合は、私たちの生活に直結する深刻な問題を生み出す。ひとつには大きな災害が襲い掛かり、生命が脅かされることであり、もうひとつは、私たちの生命を支えてくれる地の恵み、作物が大きな被害を受け、収穫がままならないことである。10月の台風で、リンゴを始め、ようやく実りかけた果樹が、激しい風雨によって無残にもぎ取られ、哀れにも地に落ちている光景が、映し出されていた。

ひとりの子どもがこういう詩を書いている。「じゅうたん」大鰐第二小学校 四年 木田 梢

「台風がさったあと/家族みんなで畑へ行った/アッと息をのんだ/足も動かなくなった/畑一面に/赤いじゅうたん/黄色いじゅうたん/おじいさんが/「ずいぶん りんごも苦しんだなあ」/と ポツリと言った/一つ一つ手でひろった/えだとこすりあったきずあと/地面にほうり出されつぶれたあと/心の中で/「りんごさん いたかったでしょうね」/とよびかけてみた/

そんな私のよこで/ぼうぜんと りんごの木をみている/おじいさん/だまって りんごをひろいあつめている/おばあさん/二人のせなかが泣いているようだ」。

「ずいぶん りんごも 苦しんだなあ」、これは真実に作物を育て、作物の生命の世話をしてきた人の、心そのものである。「一つ一つ手でひろった/えだとこすりあったきずあと/地面にほうり出されつぶれたあと/心の中で/「りんごさん いたかったでしょうね」/とよびかけてみた」この言葉に込められた子どもの心を推し量れるか、地に落ちたりんごを、単なる物としてではなく生命として見ていることを、覚えたい。作物を育て、収穫するということは、商売や経済、損得の問題ではないのである。生命の問題である。

今日はエレミヤ書からお話をする。この預言者は、旧約の中でも長い期間活動した人として知られている。ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、神殿はじめエルサレムの町がすべて灰燼に帰し、国の主だった人々が、バビロニアに連行され、捕囚とされた(バビロン捕囚)時代に働いたのである。彼は2つの光景を見て、神の言葉を語った。ひとつは聖書の国の繁栄と爛熟のさま、もうひとつはその国が滅亡と崩壊をしてゆくさまを目の当たりにしたのである。彼はその有り様を「牧者と羊の群れ」の譬えとして描きだす。

1節「災いだ、牧者たち、わたしの羊の群れを破壊し、切れ切れにする者たち」。イスラエルは神の羊の群れであり、ひとり一人の人間は、神の羊なのである。その群れを、羊飼いが、切り裂き、ばらばらにしている、というのである。「羊飼い」とは、人々を導く国の指導者たち、王や祭司たちのことである。2節ではさらに厳しい言葉が重ねられている。2節「だからイスラエルの神は、羊飼いに対して言う。『わたしの民を牧する羊飼い、あなたがたはわたしの群れを、分断させ、置き去りにし、彼らの世話をしなかった』」。

ここに告げられている言葉は、非常にエレミヤらしく厳しく鋭い調子である。歴史的には、ユダ王国は400年の繁栄を誇って来た。幾度も周囲の国々からの脅威や圧迫にさらされながらも、国力を維持し、国益を確保し、独立を保ち、エルサレム神殿はじめ、宗教制度の充実、国のインフラ整備に力を注いできた。それは決して短い期間ではない。やはりそこでは諸外国との巧みな駆け引き、妥協、迎合、裏切り等、でき得る限りの知恵を用いての歩みだったのである。

ところが神は「あなたがたはわたしの群れを、分断させ、置き去りにし、彼らの世話をしなかった」と言われる。何が間違っていたのか。国を豊かにしたではないか。外国人が目を見張るほどの神殿を立てたではないか。国を守るための手段を講じたではないか。エレミヤの裁きの言葉を聞いた人々は、そう思ったのである。

イスラエルは「羊の群れ」に喩えられる。羊は群れを作って生きる動物である。ひとりでは生きられない。互いに支え合って、力を合わせて、寄り添いながら生きている。しかし羊の群れには、必ず必要なものがある。それは群れの世話をし、草や水のある所へ導き、安全と安心を作り出す「羊飼い」である。彼がいないと、生きてゆけない。だから羊飼いは、羊の安全と安心のために、いつも羊の方を向いて、羊を見守り、その様子を見ていることが一番の務めである。詩23編に、「あなたの鞭、あなたの杖はわたしを慰める」といいうみ言葉がある。「鞭」とは、悪い羊をひっぱたくための道具ではない。鞭は振って鋭い音を立てて合図するためにある。その音で、羊は羊飼いが自分らと共にいてくれることを知って、安心するのである。

しかし羊から目を離して、ろくすっぽ羊の様子を気に留めず、他のものによそ見をしていたら、群れはどうなるだろうか。群れは切れ切れになり、破壊され、ちりぢりばらばらになって、野獣の餌食になる。その通りに、ユダ王国は、神の羊の群れの牧場は、崩壊する。それが「バビロン捕囚」の出来事であった。真に見るべきものは、羊の群れの中の、羊たち、そしてその羊たちの生命であった。ひとつの生命が生きるように、見つめ、見守り、世話をすることが、牧者の務めであったのに、牧者はそれをなおざりにした。

緒方貞子氏の訃報にこういう追悼記事を目にした。「今は逃げているけど、家に連れて帰ってくれるよね」。緒方貞子さんは9歳ぐらいの男の子に言われた一言が忘れられなかった。男の子はコソボ紛争で発生した難民の1人。「もちろん」。緒方さんはそう答え、頑張らなければと思った。『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』(NHK出版)で述べている▼緒方さんが92歳で逝った。60歳を過ぎて国連難民高等弁務官に就任。隣国に入国を拒まれ、イラク国内にとどまるクルド人避難民の支援を決断した。従来の難民救援は国外に逃れた人が対象で前例がなかった。理由は一つ。命を守るためだった。国境は関係なかった▼常に現場を重視し難民の声を聞いた。重さ15キロの防弾チョッキも着た。愛称は「身長5フィート(約150センチ)の巨人」。一人の小さな子どもの生命の重さを受け止める。

「上は大水、下は大火事、これなあに」が地球規模で起こっているのが現代である。その影響を私たちの国も、風水害で如実に味わっている。だからこそ、羊の生命を真っすぐに見て、そこに目を注ぐあり方を考えたい。3節「引用」、このように神は約束され、主イエスをまことの羊飼いとして、この世に送ってくださったのである。「もはや恐れることも、おびえることも、迷い出ることもない」。この安心の中でこそ、生命は生きるのである。