「お前のただ中に」ゼファニヤ書3章14~18節

待降節第3主日を迎えた。蝋燭の色が、3本目だけ赤い色をしている。紫の蝋燭が足りなくなって、間に合わせたという訳ではない。交通安全のために信号が設定されたように、古くから教会は「色」によって、「今の時」を指し示そうと試みた。自然の光の中に、どのように神の光が射し込んでいるかを、示そうとしたのである。

この期間の典礼色(イメージカラー)は「紫色」で、「悔い改め」を意味している。主イエスをお迎えするのに、やはり心が砕かれ、低くなければ「飼い葉桶」に誕生されるみ子を、迎えることはできない。だから悔い改めの心で。ところが他方、幼児の誕生は、荒涼たる冬の荒野に咲き出でた一輪のばらのようであるから、喜びの祝いの時でもある。「悔い改め」は、決して悲しみと嘆きに終始するものではなく、本来の目的である「喜びに向かう」ということを忘れないようにするために、ばら色の蝋燭を灯して、「喜びを忘れていませんか?」と示す。このばら色で、喜びを思い出させる。それで、この聖日は「喜びの主日」とも呼ばれている。この時期「悔い改め」の大事さが殊更に、説かれることに異論はないが、それがお題目となって、肝心の「神の喜び」を押し込めてしまう、塗りこめてしまうということはないか。それが人間の狡さ、姑息さだけでなく真面目さによってもなされることに、心を巡らしたい。こんな地方新聞のコラムを読んだ。

「国の厳格な政策に対して広がった抗議デモで、参加者が掲げたのは一片の白い紙だった。政権批判のスローガンなどは書かれていなかった。だから、治安当局も正面切って言いがかりをつけにくい。政権批判に厳しく目を光らせるかの国にあって、大衆が考え出した知恵なのだろう。真っ白な紙の裏側にどんな圧政があるのか。世界の人々は思いを巡らす。「ホワイトウォッシング」という英語がある。安価な白い塗料で、薄汚れた壁を洗ったかのように簡単に真っ白にしてしまうことだ。転じてうわべを飾り、ごまかすことを指す。犯罪や不正情報を覆い隠す検閲の意味もある。かの国の白い紙は、これを皮肉った抗議でもあるのか「ホワイトウォッシング」から派生した言葉「スポーツウォッシング」も注目されている。フェアプレーや友愛などスポーツの爽やかなイメージを借り、大会開催国などが自国の政治弾圧や隠蔽(いんぺい)体質などの悪いイメージを覆い隠すという意味だ」(12月5日付「日報抄」)。そういう「ウオッシング」、主イエスの言葉を使えば「白く塗った墓」、をひっくり返すように、今日の聖日は、バラ色の蝋燭を灯して、神の喜びに想いをはせるのである。クリスマスは何より、神の喜びの発露である。それをわたしたちがいただくのである。

今日はゼファニヤ書に目を向ける。僅か3章からなる小さな預言書であるが、心動かされる珠玉のような言葉が散見される。この預言書の鍵語は「主の日」である。繰り返し「その日」という言い方で、預言の言葉が告げられている。「主の日」とは、元々「神のみむね、計画が露わにされる日」ということで、極めて終末的なニュアンスを含む用語であった。「主の日」は別名「怒りの日」とも呼ばれ、人間の諸々の罪、とがが、神のみ前にすべてあらわにされ、裁かれる日と考えられた。今は、この人の世では様々な不正や虚偽に満ち満ちている。しかしそれを神は決して曖昧のまま見過ごしにはされない、というのである。

この章の冒頭に、非常に厳しい裁きの言葉が告げられている。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず/戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。この都の中で、役人たちはほえたける獅子/裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない。預言者たちは、気まぐれで欺く者/祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る」。即ち、役人たちは人々を脅迫して、どん欲に税金やまいないを貪り、政をおざなりにする。正義の拠り所であるはずの裁判官は、腹をすかせた狼のように、情け容赦なく金のために裁判を捻じ曲げ、貪り狂う。預言者たちは適当な戯言(受け狙いの話)を語り、祭司は口先だけで神の言葉を唱えている、というのである。古今東西、どこの国でも繰り広げられ、今でも同じことがここかしこに展開されている。ところがエルサレムの問題は、そこに神の言葉が語られ、戒めが告げられ、そこに神がお出でになるのに、不正が横行しているのである「主は、都の中にいまして正しく/決して不正を行われない。朝ごとに裁きを与え、それを光とし/誤りをなさることはない。(しかし)不正を行う者は恥を知らない(主がその只中にいますのに、知らないふりをする)」。ここにイスラエルの根本的な罪がある。

確かに、預言者の告げる通り、「主の日」は、実際にこの後、エルサレムに臨み、ユダの国は滅亡するのである。壮麗な神殿が聳えたち、王宮はじめ麗しい建物が林立していた都は、その礎まで突き崩されて、荒廃させられたのである。麗しい都は、廃墟となり荒れ地となって打ち捨てられた。この預言者も、エレミヤと同じく、エルサレムの廃墟に立って、空しさの中で、今また「主の日」の音信を告げ知らせるのである。

ところが今日の、廃墟の中で響く預言者の言葉は、再び「主の日」の到来を告げる言葉なのだが、それは「裁き」ではなく、「喜び」の告知なのである。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」。バビロニアとの戦争に敗れ、祖国を失い、異郷バビロンに虜囚された時、ユダの人々は、確かに自らの罪を深く思い起こした。自分たちの只中に、神はおられたのに、神はいつもみ言葉を私たちに語りかけて、導いてくださったのに、私たちは、あてにならず、いつものことだとみなし、心に思い起こすことをせずに、自分の力で生きようとした。そして結果、神殿、祖国、家や家族、財産、生活のすべてが失われた。「神は私たちから離れ去り、私たちのことを一顧だにされない、もはや神は、私たちを異郷の地に捨てられたのだ」。「神から捨てられてしまった」。

この思いに打ちひしがれている聖書の民に、預言者は「主の日」の到来を告げるのである。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。神はいないと思っている、その只中に、打ち捨てられた祖国に、廃墟となった都に、そして故郷からはるかに遠い、ここ異郷の地バビロンにも、神はいますと告げるのである。

先ごろ、こんなニュースが伝えられた「正体不明の芸術家バンクシーが、ロシア軍の攻撃で荒廃したウクライナの町で新しい作品を発表しました。バンクシーは金曜日(11月11日)、壁に描かれた絵の写真を自身のソーシャルメディアに投稿しました。この作品は、ロシア軍の砲撃で破壊された集合住宅の壁面に描かれていて、女性の体操選手ががれきの上で逆立ちしている様子を表しています。ボロジャンカはキーウから北西50キロにあり、激しい攻撃を受けて多くの犠牲者が出た町です。キーウから作品を見にきたという人は、『バンクシーの作品はとても重要です。世界はウクライナで何が起きたかを見なければならないからです』と話していました。欧米のメディアは、この町で見つかった別の絵もバンクシーの作品かもしれないと伝えています。その絵は子どもが柔道着を着た大人の男性を地面へ投げ飛ばしている様子を描いていて、柔道で黒帯を持つロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナの激しい抵抗を受ける姿を風刺したものではないかという臆測を呼んでいます」(NHK「バンクシー ウクライナで新たな作品制作」12月2日付)。

救い主の誕生は、荒れ野に一輪のバラの花が咲き出ることに喩えられる。古代のイスラエルの民にとって、渇いた砂漠や荒野こそが、自分たちの目の前に広がる最も馴染み深い自然であった。ところが何もない空虚に見える砂漠に、ひと雨降れば、そこから植物は大地から芽吹き成長し、花を咲かせるもうひとつの自然の驚くべき姿をも経験したのである。雨が豊富な私たち日本人には、砂漠という自然環境には、ほとんど縁がない。イスラエルの砂漠の、からからに乾いた小さな小さな植物の根に、一滴の水が注がれるだけでも、生命が大きく開かれ、成長する、そういう風景を。普段は干からびて渇き縮こまっているが、一滴の水で大きく生命は蘇るのである。

バンクシーの絵は、戦争という荒れ野にあって、咲き出た一輪のバラを模したものかもしれない。「体操選手ががれきの上で逆立ちしている様子」を描いた絵は、廃墟となった町を逆さに見てごらん、世界を反対から見てごらん、何が見える?というメッセージかもしれない。古の旧約の預言者も、廃墟となったエルサレムの都、跡形もなく破壊された町々に、ふたたび花嫁の声、花婿の声、婚礼の歌が響くようになる、と告げたのである。主イエスも、荒れ野のようなこの世界にやって来られ、ベツレヘムの片隅に、飼い葉桶の中に宿られたのである。神は言われる「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」。

人生で起こる一コマ一コマの出来事は、皆、偶然で、脈絡なく別々に突発的に起こっていることだ、と一般には考えられている。人の死も、戦争も、病気も、貧困も、嘘偽りも、みなバラバラな出来事の一コマなのだと。ところが、その小さな一つひとつが結ばれて、ひとつの大きな神の出来事、ドラマというものがあるのではないか。飼い葉桶の中から始まったドラマは、今のわたしの生活の中に入り込んでくる、神のドラマに思いを馳せたい