詩人、黒田三郎氏の作品に『ある日ある時』と題された詩がある。「秋の空が青く美しいという/ただそれだけで/何かしらいいことがありそうな気のする/そんなときはないか/空高く噴き上げては/むなしく地に落ちる噴水の水も/わびしく梢をはなれる一枚の落葉さえ/何かしら喜びに踊っているように見える/そんなときが」。
明るい秋の一日の、ありふれた、あたりまえの風景を切り取ったような作品である。しかし、あたらめて何気ない日常が、このような言葉に紡がれると、「そうそう」と深い共感を覚える気持ちになる。日常生活に根ざした作品で知られるこの詩人は、「暮らしの中で詩の対象にならないものはない」と述べている。「何げなく通りすぎるような、ある一瞬を詩人は見る」、とこの方は言うのだが、そこに静かな喜びがたたえられていることを知らされ、目が開かれる。「喜び」とは、何も大仰で特別のものではなく、ここそこの日常に、いつも必ず散らばっているもので、「喜び」がないとは、私たちの心が閉ざされていることに他ならない。あなたの心は、喜びに対して開かれているか?
今日の個所は、テサロニケの信徒への手紙二の冒頭部分である。手紙一の続報という体裁で記されている。学者は前の手紙と、この手紙の内容や主張を比較して、用語や構文等そのままの、いわば「コピー」が記されているにもかかわらず、論旨が真逆であることを指摘して、第二の手紙はパウロの手になるものではないと判断している。一番の違いは、一の手紙の方は、間近な終末・主の再臨への期待観が非常に強いのに比して、手紙二は、過剰な終末待望を批判し、今、足を地につけて生きるべきことを説く点である。但し問題は、何によらず、制度が整ってくると、なぜか形式にこだわり、自由や柔軟さ、あるいはゆらぎが認められなくなるという点にある。所詮、人間なのだから、欠けやゆがみはあたりまえのはずなのだが、その「あたりまえ」が許せなくなるのは、どういう訳だろう。
第二の手紙の時代は、パウロの死後、半世紀位時が経ってから記されたと考えられている。5節以下「これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです」。ここで議論されていることは、「資格」であり「正しさ」であり、それを測る「判定(ものさし)」である。「誰が神の国にふさわしいか」、主イエスの時代のユダヤ教では、このテーマで盛んに議論が行われていたらしい。「神の国の軛を負う」というお題目で、神の国を来たらせるために、自分がどんな貢献をしているのか、どんな苦労をしているのか、何を犠牲にし、どう忍耐し、精進しているのか。神の国のために、どれ程、忠実、誠実であるかを口にすることで、実のところ、単に己の自慢話をしているだけなのである。
殊、話が自慢話に終始していれば、(誰も好んで人の自慢話は聞きたがらないだろうが)罪はないだろう。ところが己の苦労を自負する人は、得てしてそれだけを唯一無二のすべてを計る物差しにして、他を裁き始めるのである。
最近のテレビ・コマーシャルでは、登場人物が推薦品を称賛する場面で、隅の方に小さくテロップが流れる。「これは個人的な感想であり、製品の効果を証明するものではありません」。「それってあなたの感想ですよね」に過ぎない意見でもって、他の人々の是非を決めつけるのである。本来、自分の苦労と神の国の間には、何の関係もないのである。そもそも「神の国」とは、「神の支配」のことで、神のみわざであるから、人間には何ら介入の余地はないのである。だから主イエスは言われた。「土はひとりでに実を結ばせるものであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる(マルコ4:28)」。成長させてくださるのは、神ご自身なのである。
残念ながらこの「神の国の軛を負う」議論を、初代教会もまた同じ轍を踏んで始めてしまったようなのである。「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」。これはさながら信仰的脅迫であると言われても仕方あるまい。ここには主イエスのことが語られてはいるが、一人の人、まことの人として歩まれたその生涯のことは、一顧だにされていない。主イエスが十字架の道を歩まれたのは、どういうことか、十字架で血を流し苦しまれたのは、どうしてなのか、ここから目を反らし、ただ終末をのみ強調し、他を裁くとは、どういうことなのか。
但し、こうした論調の中に、次のように信仰生活の一コマが語られていることに、慰めを覚える。3節「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています」。
ここで報告されていることは、教会の日常的な交わり、人と人との毎日の当たり前のふれ合い、そこに込められたひとり一人のあたたかな心遣いである。「お互いに対するひとり一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」、これを措いて他に「信仰の成長」はないのである。信仰というものは、いくら真剣で熱心であっても、心が燃やされていても、他の人々のことが目に入らない「偏狭さ」の中にあるなら、成長とは程遠いものであろう。「愛がなければ空しい」のである。
さらに「忍耐と信仰」と呼ばれているものすらも、個人の努力や信念、精進や熱意からではなく「お互いに対するひとり一人の愛」という、人間関係のごく当たり前の所から生じて来るものであるだろう。自分のありのままを、どれだけ許していただいているか、どれだけ忍耐していいただいているか、主イエスのみ前での思いが、教会の人間の絆なのである。「わびしく梢をはなれる一枚の落葉さえ/何かしら喜びに踊っているように見える」と詩人は歌うが、そういう「喜び」を共に味わえるのも、教会ならではのことであろう。