昨今の諸事情によって、この数年間に、家庭菜園を始めた方も多いだろう。こんな文章を読んだ、「しかし、技術を向上させず種子ばかり播き続けて学んだこともある。ある種の野菜や果樹は、手入れをせずとも収穫を楽しめる。敷地の土は痩せ、農業技術もなく、しかし収穫は楽しみたい、という調子が良い人は、厳しい条件でも育つものを植えればいいのだ。ほったらかしで育つものなら農薬もいらない。この条件を満たす夢の野菜がニラである。種から育てると収穫まで1年ほどかかるが、日向でも半日陰でもよく育ち、一度育ってしまえば一年に何度も刈り取れる。数十株も育てれば、週に1、2回料理に使ううちに最初に刈り取った株は再生している。ニラの無限ループである。病気にもかかりにくく、害虫もたまにアブラムシがパラっと着く程度なので農薬も必要ない。やる気も向上心もない人は、ひとまずニラの種子を買って庭にばら播こう。それだけで、1年後には浴びるほどニラが食べられる。株は真冬に一度枯れるが翌春には球根から再び芽を伸ばす。条件が合えば2年目以降はこぼれ種子でも殖えていく」(藤原祥弘、アウトドアライター、編集者)。
今日の聖書個所は福音書がどのように書かれたのか、その背景を探るのに又とないテキストである。現在では通説ともなっている説明に、「2資料説」がある。最初に「マルコによる福音書」が記された。それに続くマタイやルカは、最初の福音書マルコを参考に、それを引き写しながら、もう一つの資料を加味し、今では失われている何らかのまとまった文書を材料にしながら、各々の福音書を記していった、というのである。但し、執筆にあたっては、機械的に資料を繋ぎ合わせ、並べたのではなく、独自の見解、神学思想を反映させて、自分の独自の福音書を形づくって行ったのである。
今日取り上げる「種蒔きの喩え」は、共観福音書すべてに記されている有名な話である。「種蒔き」という人々の生活に根本に根差し、これがなければ生活そのものが成り立たない営みであるから、人々は、わが身に直接関わることとして聞いただろう。後に成立した教会に集った人々も、ここに主イエスの肉声をリアルに聞いたことだろう。
但し、この小さなたとえ話のリアルさは、小さな種の成長、そして多くの結実が示す自然の祝福や恵みへの感謝、賛美が語られているばかりではない。成長や祝福の背後にある物語も、短い文章の中に盛り込んでいることが、その巧みさの秘密である。蒔かれるすべての種が皆、成長し、豊かに実を結ぶのではない。「良い土地」に落ちないで、芽を出さず実も結ばず、空しく費えて行く種があることが語られるのである。これをどう考えるか。
どの福音書も同じような書き方で、この譬え話を記している。もとはマルコの記述がベースになっているのであるが、それでもただ先人の筆を踏襲して、という書き方をしているのではない。よく指摘されることだが、ルカのやり方は、マルコの文章を短く端折ってまとめて、それに自分独自に採集した材料をはめ込もうとする、と分析されている。例えば「良い地」に落ちた種について、こう記されている。8節「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」マルコが「生えて実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるもの百倍もの実を結んだ」と記すのと比較してほしい。マルコの場合は、皆一様ではないが、それぞれの種が、それぞれの力量によって、多くの実を結んでゆくことが、表現されている。この語り方によって、聞く者はこころに鮮やかに、一粒一粒の種の成長する姿を思い描き、収穫の喜びを共にするのである。ところが、ルカはどうか、ただ「百倍の実を結んだ」、非常に無機質、事務的に収穫を語るのみである。どうもルカの視点は、収穫の喜びに目が向けられていないようである。
ではどこに彼の目が注がれているのか。5節「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」。また7節「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」。ここにルカだけが自分の言葉で記している文言が付加されている。それぞれ「人に踏みつけられ」、「押しかぶさって」、どちらも人間が手をくだし、手を染める行為によって、つまり人為的な事柄によって、「種」が空しく費えて行くというのである。私たちの世界では、自然の成り行き、大自然の大いなる営みの中で、痛ましくも犠牲になる小さな生命がある。そういう犠牲の上に、収穫や繁栄は保たれている。だから犠牲の上に立って得られる収穫に感謝しましょう、というような論調に、ルカは与さないのである。「人に踏みつけられ」、「押しかぶさって」と語ることで、自然の営みではなく、人間のあり方、社会のあり様を鋭く問題にするのである。
例えば、自然の摂理として、「弱肉強食」というような生命の営みが語られる。弱い者は強い者のための犠牲になる、これはこの世界の掟、法則で当然なのだ、と語られる。本当にそうか、実際のそれは、食う者も食われる者も、それぞれに必死で、生命ぎりぎりの生命の相なのである。自然において強い者は自分の思い通りに、どうにでもわがまま勝手に振舞うことができる、などということはない。「弱肉強食」それもまた人間の勝手な思い込み、読み込み、あるいは、自分たちの残忍で野蛮は振る舞いを自己正当化するような論理ではないのか。それでこの残酷な現実社会の有様を、仕様がないと免罪にすることはできないだろう。人間はその程度のものなのか。
そもそも主イエスが語っているこの譬は、「種蒔き」を題材にしているが、それが指し示しているものは、自然の仕組みについて、ではないのである。「種」とは「神の言葉」であり、「種蒔く人」は、主イエスご自身、さらに「収穫」は実に「神の国」のことなのである。「種」が蒔かれる、いろいろな場所に、その種は自由奔放に転がって行く、もし種が良い地にだけ落ちるとしたら、神の言葉と全く関わりのない場所が生まれてしまう。神の国とは、そういう閉ざされたものなのか、いや、神の言葉は、ありとあらゆるところに蒔かれ、転がって行くのである。「道端、石地、茨の中」とは、条件の良い、最初から整えられた好立地の場所ではない。しかしそこにも「神の種」は転がって行くのである。そのまま放って置かれれば、その種は、鳥がついばむだろうし、水気がないから芽を出さず、立ち枯れるだろう。「条件が悪い、荒れ果てている、最初からだめだ」、皆はそういう地を目にしてどう受け止めるか。そしてそのような地にも、神の種、み言葉の種が蒔かれることを、どう考えるだろうか。
人はやはり条件の良い、整えられた好立地ばかりに注目するということはあるだろう。蒔いても収穫の見込みがないようなところに力を注いで、敢えて労苦するということは、余り得策には見えない。しかし、条件の悪い場所には目もくれないどころか、そこを「踏みつけ」にし、「押しかぶさって」さらにひどい振る舞いに及ぶ、というのはどうか。現代流に言うなら、どうせ役立たずの土地なのだから、いっそのこと有害なごみや、どこの引き取り手もない、やっかいな産業廃棄物の処分場にして、そ知らぬふりを決め込もうか、というような態度も感じられる書き方である。
弟子たちがこの譬について、主イエスにその意味を尋ねたというのは、「人に踏みつけられ」、「押しかぶさって」という鋭く辛辣な主の言葉に、当惑させられたからであろう。主イエスはこれに応えて、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われる。「神の国の秘密」と言われるが、その「秘密」とは難解で複雑で、非常に高邁な思想という訳ではないだろう。そもそも主イエスは「幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」、と言われた方なのだから。「秘密」とは、この弟子たちが当惑した「人に踏みつけられ」、「押しかぶさって」という言葉にこそ、それを解き明かす鍵があるのではないか。
「神の言葉」を押しつぶし、踏みにじるような荒々しい、野蛮な暴力は、今の時代も枚挙にいとまがないくらい、ここそこに現れている。主イエスの十字架は、肉となった神の言葉である主イエスが、押しつぶされ、踏みにじられる出来事であった。主イエスがエルサレムに入城される時に、民衆は「ホサナ」の大歓声で彼を迎え、熱狂した。ところがそれから数日後には、同じ民衆が、引き出された同じ主を前に、「十字架につけよ」と叫ぶのである。自分たちの意に沿わない、ロバに乗る無力なイエスではなく、強盗である力のバラバを、主と崇めるのである。「神の言葉」を押しつぶし、踏みにじる人間の罪がここにある。悪い地は無視して、放って置こう、ではなく、主は、その悪い地へと歩みを進める、その悪を十字架によって背負われる、一粒の種が死ぬことがなければ、いのちの実りは生まれないのである。ルカは「良い地に落ちた種は、百倍になった」と語る時、そこに押しつぶされ、踏みにじられる主の姿を見、それによってこそ与えられる、十字架の恵みを見ているのである。
冒頭の文章の続きを少しばかり、「今のところ、美食を追い求めたり、心ゆくまで食べることは悪とはみなされてないけれど、菜園を作るようになってから自分の胃袋に世界を合わせることを疑い始めた。みんなが際限なく欲望を実現したら、世界はあっという間に食い尽くされる。そろそろ、地面の大きさに胃袋や欲望を合わせるタイミングではないだろうか」。恵みとは、一粒が死んで豊かな実を結び、それに養われるという厳粛な出来事である、その恵みに自分の腹を合わせる必要がある、と語られる。「押しつぶし、踏みにじる」のでは、どんな生命をも育まれるはずはない。収穫ばかりに目を向けるのではなくて、荒れ地に転がる一粒の種のことに、思いを拡げたい。