「むなしくは、戻らない」イザヤ書55章1~11節

ある年配の方がこんな日常のひとこまを語っている。小学1年生のお孫さんが持ち帰った国語プリントの話。みんなの前で発表する時の注意点について、四つの選択肢から二つを選ぶ問題である。選択肢は(1)できるだけ小さい声で話す(2)みんなに聞こえる声で話す(3)下を向いて話す(4)みんなの方を見て話す-。お孫さんは(2)と(4)を選んで正解だったが、「今は新型コロナだから、小さい声で話すも、下を向いて話すも間違っていないよね、丸だよね」と言ったそうである(有明抄11月24日付)。

私たち大人は、殊更、正解に拘り、それがきちんと答えられるか、そればかリが気になる。いわば正解以外の答えなど、どうでもいいのだ。ところが子どもたちはそうではない。自分の置かれている場、自分の世界で何が問題なのか、何を考えなくてはならないか、こういう無機質に思える質問すら、自分自身が問われていることとして把握していることに、驚かされる。かつて、こういう話題が語られたことがある。「氷がとけるとどうなるでしょう」。理科の問題である。正解は勿論「水」である。しかしある子どもはこう答えたという。「春になります」。雪国に住む子どもの回答と言われるが、冬に雪に閉ざされた中での生活、今は外に出て皆と遊ぶことはできない、でも、氷が解ければ、温かい春になって、皆とまた楽しく思いっきり外を飛び回ることができる。そういう希望が、この「春になります」という一語に込められているではないか。子どもたちは、決して目の前の「現実」、その多くは灰色で光の乏しい光景かもしれないが、その暗さに押しつぶされることなく、再び訪れる光を、ちゃんと目にしているのである。希望の在りかを、私たちに教える逸話である。「雪が解けて、春となり、氷は解けて水となってほとばしり、田畑を豊かに潤す」、これはこの国だけにもたらされる恵みの出来事ではなく、あまねく世界に広がる、恵みの真実を告げるものだろう。

イザヤ書には、クリスマス前の待降節に必ず読まれる聖句がちりばめられている書物である。旧約の預言書の中で、最も大部の書物であるが、学者たちは、活動時期の異なる複数の預言者の言葉が、併せられた文書だと見なしている。40章から55章までは、捕囚期に活動した無名の預言者の言葉が蒐集されていると考えられている。祖国破れて、山河もまた荒廃し、捕囚によって遠い異国に追いやられ、バビロンで苦渋の生活を始めた同胞のために、支えと励ましのみ言葉を語った預言者であるが、その貴い働きを為した者の本当の名前が知られていない、人間の目からしたら不可解で不名誉であろうが、実に神のみわざの何たるかを示すものであろう。神のみ名の前に、人の名は忘れられる、神の言葉の前に、いかなる人も、破れるのである。逆に言えば、人間が破れずに意気揚々と勝っているところは、やはりどこか不真実な気配が漂う。今日のテキストは、この無名の預言者、学者は仮に「第二イザヤ」と呼ぶのが常だが、彼のメッセージの締めくくり部分であると見なされる個所である。成程、彼の使信の行き着くところを示唆するような、大きな喜びと荘厳さを兼ね備えた美しい言葉が記されている。

1節「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか」。これほど真っすぐに、これほど端的に、人間の生きる「幸い」を語る言葉があるだろうか。「渇いている者が、水を得る、飢えている者が、糧を得る、価なしに」、皆さんはどう思うか。「働かざる者、食うべからず」と考えるか。預言言者は言う、すべてのものが金銭の価値に置き換えられるのか。金銭のやり取りを越えた、当り前の生命の営み、命を支える働きというものがあるのではないか。ところが人間は、糧にならぬもの、生命の豊かにせずに、却って損なうものばかりに目を向け、身銭を切って血眼になってそれらを追い求めている。それでは渇きは一向に癒えず、飢えは満たされることはない、というのである。第二イザヤの時代に人々が生きているのは、異郷の地バビロン、文明の都であり、富や経済に支配された町に暮らす人々の抱える現実が、如実に映し出されている。同時に、時を越えて現代の私たちにも、深く問いかけてくる言葉であろう。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」、今日12月4日は、奇しくもペシャワール会の中村哲医師が、天に召された命日である。いつものようにジャララバードの宿舎を出て、作業現場に向かう途中、何者かに銃撃され、病院に移送された後、亡くなった。享年73歳であった。また、同乗していたドライバーはじめ4人の護衛の人たちも、犠牲になった。あれから3年が過ぎようとしている。

氏の晩年は、砂漠化した土地に水を引くために、運河掘削の水路工事に邁進した。医師がメスでなく重機のハンドルを握ったのである。その掘削の始まりについて、中村氏はこう記している。「アフガン人の大半が自給自足の農民である。米軍の進駐に続いて『アフガン復興』が話題となったが、農村地帯が恩恵に浴することは少なかった。PMSは既に2000年から医療だけでなく、飲料水源(井戸・カレーズ)の確保にのりだしていたが、飢餓と難民化が後を絶たぬ状態で、より抜本的な「農村復興事業」へと傾斜していった。用水路計画が始まったのは自然な成り行きであったのかもしれない。当時、誰も手をつけなかったからである。初め、手さぐりの時期が続いた。一介の医師にとって、農業土木の分野は余りに縁遠いものであった。(ペシャワール会報「灌漑用水路完成間近特別号」2009年5月27日)

この報告書は「ここにこそ動かぬ平和がある」と題されているが、最初に掘削した用水路の場所は、現地のことわざに、「ガンベリのように喉が渇く」と云われるほど、乾燥した荒地として有名なのだそうである。「初めの頃、ここが緑の楽園になるとは誰も信じなかった。だが、この6年間、用水路は、難工事を重ねながら全長20キロメートルまでを完成、2,500ヘクタール以上が潤されて緑を回復した。残る4キロメートルが、このガンベリ沙漠沿いの岩盤地帯と沙漠横断路である。この完成が目前に迫っている」。この工事によって何がもたらされたのか、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。中村氏はじめ、工事に携わった現地の人々、どこの出身であるかを問わず、そこにいる誰もが、大人も子どもも、このみ言葉の真実を、聖書を知る人も知らぬ人も、みな等しく、み言葉の心を味わったのではないか。

しかし「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」という呼びかけは、古代の人にとっては、思ってもみない予想外の呼びかけでもあったろう。古代では厳格に水は管理されていたし、その使用については、仲間内の厳しい掟の遵守が求められていたのである。その掟を破る者は、死を免れなかった。そういう生活の中に、神は「水の所に来るがよい、たとえ金を持たなくても」と呼びかけるというのである。なぜそんなことがあり得るのか。それは「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」。神の思いは、私たちの思いをはるかに越え、神の道は、私たちの道を高く超えているからだ、というのである。

神は、「救い主」をこの世に遣わすのに、エルサレム神殿の最も奥深くの、余人が足を踏み入れることを禁じられる「至聖所」に送られたのではなかった。また豪奢で壮麗なヘロデ宮殿のきらびやな寝所、温かな「寝床」に、生まれさせたのではなかった。ベツレヘムの場末の家畜小屋の中の、汚れた飼い葉桶の中に、生まれさせられた。つまり最も低いところに、「救い主」を誕生させられた、どうしてか。それは神の最も高いみこころは、私たちの思いをはるかに越える場所に、あらわされるからである。「飼い葉桶」、そこは仲間内だけの厳しい掟、あるいは人間の小賢しい約束事や取り決め、ましてや面子や利害や欲望を、まったく問題にしない場所である。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」、そこはまさしくベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の中でもある。そこに行くのに、誰に、どこに遠慮があるだろうか。ところが最初にそこを訪れた者は、数人の羊飼いと東の異邦人だけだったという。

用水路が間もなく完成するというその時に、中村氏は語る「どんな人間でも、自分が育った宇宙(環境・世界)がある。それは、善悪や美醜のものさしを提供するだけではない。同時に、人知が超えてはならぬ神聖な普遍性を戴いている。『どんな悪人でも許され、どんな善人でも裁かれる』という逆説的な自然の事実が隠されている。それ故にこそ、人はその前で謙虚になり、自由を感じ、人間らしい感性を保つことができる。用水路はまさに、地域はもちろん、これを支える日本側の人々の謙虚な祈りにも支えられて、実現したのである。かつて日本でも、大きな水路事業が完成したとき、必ず祠を設け、天の恵みに感謝し、無事を祈願した。日本とアフガニスタン、自分はこの二つの異なる世界の間で、一つの輝きを垣間見た気がする。確かに血なまぐさい出来事や、利害の絡むどろどろした争いも絶えなかったが、それは決してこの輝きを損なうものではない」。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。人間の営みのひとつ一つの事柄は、余りに小さく、中途半端に途切れており、すべてむなしく費えているようにも見える。しかしそこに語られる「み言葉」は、むなしく戻ることはない。確かに神はみむねを必ず成し遂げられる。飼い葉桶の中に、それが見事に表されているではないか。