祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙15章1~6節

コロナの影響で、ペットを飼う人が増えたと伝えられている。動物はやはり生命あるものだから、生殺与奪は飼い主の勝手、という訳にはいかない。そんな心得を記した「犬の十戒」と呼ばれる文章がある。こんな戒めが連ねられている。一戒「できるだけ一緒にいてください」、わたしにとって、あなたと離れている時間がつらいということ、わたしの命はだいたい10年~15年くらいだということを、わたしと暮らす前に覚えておいてください。できるだけひとりぼっちでいたくはありません。二戒「気長に待ってください」、時間はかかるかもしれないけど、あなたの求めていることや言っていることをわたしが理解できるまで、待ってください。そして七戒「たたかないでください」、あなたがわたしをたたく前に思い出してほしいことがあります。わたしは本気になったら、あなたより強いけれど、わたしはあなたを傷つけないと決めています。

今日の聖書は前章に続いて、人間の「強い」、「弱い」が問題にされている個所である。「強い」が単に身体的運動能力を意味するのなら、確かに「犬」の方が、「強い」ということができる。犬と人間では、生物学的な身体構造が随分異なるから、一概に「強弱」を比較することは難しいだろう。もう少し人間の体つきに近い生き物、例えばチンパンジーと人間の身体能力を比較すると、体重とか身長など、体つきは近いものの、握力はほぼ300㎏あることが知られている。それは彼らチンパンジーが木の上で生活をしているためで、樹上生活がそういう能力を育んでいると言えるだろう。木の枝にぶら下がったり、違う木へ飛び移ったり、また木の上を素早く移動するためにと非常に筋力が必要な生活をしているので、生存に必要な筋力として握力が強くなったと考えられている。

前章でパウロは「弱い人」の具体的あり様を語っている、2節「弱い人は、野菜だけを食べている」。方や「強い人」は「何を食べてもよいと信じている人」だという。「野菜だけを食べている人」というが、皆さんは、いわゆる「菜食主義者」をどう思われるか。年齢とともに食物の嗜好は変化するようだ。子どもの時には、殊更、「食べたい」とか「好みだ」と思えなかった食べ物が、年を経ると「おいしい」と感じられるようになるから不思議である。逆に、若い時はあれほどおいしいと感じていた食べ物が、苦手になることもある。もっとも美味しいとか、不味いとか以前に、食べると胸焼けしたり胃が持たれたり、身体に不調を来たらすのは、皮肉なものである。

世に「ヴィーガン」と呼ばれる人々がいる。しばしば「完全菜食主義者」と訳されるが、その本来の意味は、食物制限だけを意味しておらず、ある主義にしたがって生きることのすべてなのである。即ち、「ヴィーガン」とは、衣食住をはじめとした人間の生活全般に「動物を搾取(すべての利用)しない」というその思想自体にあるといえる。そのうえで、食に関するヴィーガンとは、食品全体、もしくは部分的に動物や動物由来の成分が使用されていないこと。ヴィーガンの人は肉や魚だけでなく、動物由来である卵や牛乳などの乳製品、はちみつなども口にしない。食の分野以外では、日用品や衣服から化粧品まで、動物実験されたり動物由来の成分を含んだりする商品の購入や使用、娯楽のための動物の利用(動物園や水族館など)を肯定することもヴィーガニズムの主義に反することになる。こういう主義に厳格に従って生きる生き方を、どう思うか。「弱い」のだろうか。

時代は違うが、パウロの言う「ただ野菜だけを食べる人」=「弱い人」というあり方も、突き詰めれば同じような内実をはらんでいると言えるだろう。「身体能力」の問題ではない、ましてや「精神的に弱い」ということでもないだろう。「強い」ことが「ものに動じない」ことだとするなら、何が起こっても「平常心」でいられることだとするなら、それは単に「鈍感」なだけであり、おそらくそういう人は、適度の差こそあれ、存在しないのではないか。問題は、人間というものは、一人では生きられず、群れて生きる時に、すぐに順列を付けて、だれが優位なのかを決めたがる性質があるので、相対的な優劣を、殊更に全体に拡大して、「強い」「弱い」というレッテル張りがなされることだろう。

パウロが言いたいのは、「強い人」がいいとか、「弱い人」が正しいとかではない。「強い」「弱い」という風に、多様な人間を、無理やり2つの種類に分断し、その一方を排斥することなのである。そもそも「強弱」という発想自体が、神の創造の秩序にそぐわないと言えるのである。神は、すべての被造物を、強いものと弱いものとに分けて造られたのではなく、みな総じて「恵みの器」なのである。とりわけ人間は、すべての者が、等しく「神のかたち」であり、そこでは強弱は全く問題にされていないからである。

パウロは「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と語るのは、人間の強弱を承認しているのではなく、強さを自認する者が、その強さを盾に、自分の価値観を押し通すことを問題にしているのであり、人間のあり方は、人間の目から強いにせよ弱いにせよ、「担う」こと、つまり支え合うしかありえないのだと主張しているのである。

3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」とその根拠を詩編69篇10節から導き出している。「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」このみ言葉から、「互いに負い合う生き方」を読み出すのは、聊か牽強付会な印象を受けるが、主イエスが謙虚に、他の人々の罪や重荷を担って、十字架の道を歩まれたことを、その模範となられたことを、思い起こさせることで、キリスト者同士の交わり、神の招かれた多種多様な人々のコイノニアの基礎を明らかにするのである。

初代教会で、「食」を巡って、人間の「強さ」、「弱さ」が議論になったというのは、滑稽な気もするが、「食べる」という人間の最も基本的な生命維持活動が、いかに重要かを感じさせられるのである。現代でも「食物」が、しばしば人間関係に一石を投じることを考えると、さらに「食」の問題が、SDG’sの一番の課題であることを思えば、その事柄を通して、希望をも相共に見ることができるであろう。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。