「わたしについて来なさい」マタイによる福音書4章18~25節

「謦咳に接する」という言葉がある。「謦」も「咳」もせき払いの意味。「謦」は軽いせき、「咳」は強い、ゴホゴホいうせきなのだそうだ。辞書には「尊敬する人や身分の高い人に親しくお目にかかかり話を聞くこと」とある。昨今のご時世なら「近い距離で会話なんて」と目をつり上げられそうな言い回しである。他人のいる場所で、小さな「せき」するだけでも、そこにいる皆の視線が集中するような雰囲気である。「謦咳に接する」などもってのほか、リモートでお願いする、という論調である。しかし、去年の四月に大学に入学した新入生が、折角入学した学校キャンパスに登校できず、新しい友人もできず、ずうっと授業はリモートで行われていることに、「疲れ果てた」と心の内を漏らしている。「謦咳に接する」などという、聊か古臭い響きの言葉が、人間の成長や健康には、欠かすことは出来ない、という証なのだろうか。

「少年よ大志を抱け」との名言を語ったクラーク博士は、札幌農学校で農学などを教授したが、教え子と何年も共にいて、授業で接したわけではない。札幌に滞在したのはわずか8カ月ほどだったという。また幕末に多くの志士が巣立った松下村塾も、吉田松陰が教えたのはこれまた、わずか1年余りと、思いのほか短い。量より質、まことの師から学んだ時間は、たとえ短くても、この上なく濃密だったということか。大学の授業が、ほとんど「遠隔」で行われたのは、大体、昨年の4月下旬から9カ月近くに及ぶといわれるから、クラーク先生や松陰先生が教えた期間と、そう変わらない。学生の嘆きもリアルに感じられる。先ほど、二人の有名な先生の「謦咳」の期間を例に挙げたが、主イエスの場合、人々の前で活動し、宣教された期間は。大体3年程であったと考えられている。皆さんはこれを長いと思うか、短いと思うか。

今日はマタイ福音書4章13節以下、主イエスの公生涯、宣教活動の始まり記事を取り上げる。よく知られた「弟子の召命」と、それに続く「大勢の病人の癒し」の個所である。いよいよ主イエスの働きの初めであるが、但し、この個所はどちらも、当時の人々の目からしたら、随分奇妙に見える記述なのである。ここでの主イエスの振る舞いは、この時代に人々にとって、理解しがたく、尋常でない行動だと言っても良い。そして福音書記者は、これを公生涯の最初に置くことで、ナザレのイエスという方の、並外れたペルソナ、個性の人であることを語ろうとしているのである。どこが奇妙だと思われるか。

古代という時代、世界のどこの国でも、ひとつの普遍的な価値観があった。それは「人生の肝心は、師と仰ぐべき人物を見出し、その足元に座ること」、つまり「謦咳に接する」人を見出すことが、人生の浮沈を分けるものとして、見なされていた。まだ公教育制度の整っていない時代である。庶民でも学べる学校制度などというものは、どこの世界でもこの数百年の内に生まれてきた近代の仕組みである。すると生きる術を得るためには、「師」と仰ぐべき人間を見つけて、自らその先生の所に行って弟子となり、技術や技能を習得し自分の付加価値を高め、その人と繋がることによって、人間関係を構築し、同業者繋がりを頼りに生活の資を得るのである。極端に言えば「物乞い」をするにも、親方がいて、そこに弟子入りし、技術を学び、組合の一員にならなければ、開業できないのである。もちろん稼いだ金の上前をはねられる。

ところが主イエスはどうしたか。ガリラヤ湖のほとりを歩いていると、シモンを始め数人の漁師たちが、網を打って仕事をしているのをご覧になった。そして言われる「わたしについて来なさい」(19節)。これがどうして異様なのか。まず、この時代の人間関係は、地域で同じ仕事をする仲間内で成り立っていた。だからナザレの者、つまり他所者が、しかも漁師でもない部外者が、わざわざ声を掛けて来ることはまずない。そしてそれ以上におかしいのは、「わたしについて来なさい」つまり「自分の弟子になれ」、と促し、あるいはお誘いするというのは、普通では考えられない。弟子になりたいものが、自分の方から「弟子にしてくれ」と頼むのが、この時代の「仁義」というものである。頼まれた先生が認めれば、師匠と弟子の関係が成立する。ところが先生である主イエスの方が、弟子を募る、こんなことは聞いたことがない。余程この先生、人気や人望がないのか。

19節の「わたしについて来なさい」は直訳すれば「さあ、わたしの後ろへ」という訳文になる。普通なら、「あれをしろ、これをしろ」と、いろいろ細々したことを、師匠は命じるものである。「まずは雑巾がけから」が弟子たるものの、通り相場である。ここで主イエスは、ただ一つのことしか指示していない。「わたしの後ろにいなさい」。先生の後ろにいるなら、先生がどんな人と出会われ、何を語り、何をするのかが、すぐ間近で、しっかり見えるだろう。前にしゃしゃり出れば、邪魔をすることになる。横に出るなら余計なことをしでかす。後ろなら、守られるし、良く見える。後ろについていったなら、見よう見真似で、いつか先生の振る舞いの真似くらいはできるようになるだろう。だからこの「ついて来なさい」は、主イエスのなされるその働きの「後に続く」ということをも意味している。実際、主イエスが天に代えられてから、最初の教会の人々は、この主イエスの物まねをしようとしたのである。もちろん、先生のようにできるわけではない。しかし後ろで見ていた通りに、なんとか見よう見まねで。それでも数十年それを続ければ、少しは形になって来る。これが「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまうを待ち望む」(教団信仰告)の意味であり、教会はその歴史を今もなお、たどり続けている。

この「弟子の召命」に続く「たくさんの病人の癒し」の記事も、主イエスの並外れた振る舞いを今に伝えている。今の時代、余程、特別な場合には、無理を言って医師に「往診」をお願いすることもあるが、大抵、病気を診てもらおうとすれば、自分の方から出向いて病院に行く。古代でもそれは同じことで、癒しのカリスマを持っているとみなされる人、今で言う「医師(呪術師)」のところに行って、治療をお願いしていたのである。

ところが主イエスは、23節「ガリラヤ中を回って云々、ありとあらゆる病気や患いを癒された」というのである。このみ言葉で興味深いのは、「病気」と「患い」が区別されていることである。「病気」とは個人的な苦しみであるが、「病気」は家族や身内、周囲の人にも影響を及ぼす。「心配や重圧、不安」、といった目に見えない「煩い」を生じさせる。ひとりの病気が治れば、それですべて人間の問題、家族の問題が解決するのではない。「病気」があっても、「患い」が受け止められるときに、真実の癒しは起こる。主イエスは病の人、そしてそれゆえに患いに満ちている人々の所に、自分から出向いて、働かれるのである。その後ろには、たくさんの後について来る者たちが、金魚の糞みたいにくっついている。まるで子どものお楽しみゲームを見るようである。今まで、仲間内で、同業者で、損得で、地縁血縁で結びついていた人々が、その狭い垣根を超えて、直接に顔と顔を合わせて、出会い、交わるようになった。

1970年代後半、米国の5大オーケストラで演奏する女性は、わずか5%にすぎなかった。だが、今では女性が35%以上を占めるようになった。女性が飛躍的に増えたのはなぜだろうか。審査員と演奏家の間をカーテンなどで隔て、誰が演奏しているのかを見えなくする「ブラインド・オーディション」が変化をもたらしたとされる。カーテン1枚で女性はもとより非白人の割合も増えた。美しい音色に性別や肌の色が関係ないことに気付かされる。

12弟子を始めとして、主イエスに出会った人たちは、みな、主イエスのほんとうの姿を知る由もない人たちであった。だれひとり、十字架と復活を目の当たりにするまでは、本当のことを知り得なかった。主イエスとの出会いは、ちょうど「ブラインド・オーディション」での出会いのようなものである。しかし、人間の垣根を超えた出会いというものは、見えないものに繋がれて、起こされるものではないか。「後についておいで」、こう招かれる主の後についていったなら、その驚くべきみわざを知ることが出来る。