「わたしはあなたに言う」マルコによる福音書2章1~12節

「大寒寒波」、そして「立春寒波」と呼名が与えられている今年の大寒波の襲来で、雪国は未曽有の大雪に悩まされている。この季節らしい新聞記事を紹介したい。「雪深い上越生まれの児童文学作家、杉みき子さんの随筆『雪おろし』によると、屋根の雪おろしは誰かと一緒にやった方がいいそうだ。誰かいないと転落時に発見が遅れる恐れがあるが、それ以上に、一人で自然に立ち向かう寂しさに耐えられないらしい。やむなく一人で屋根に上った吹雪の時など、遠くの屋根にスコップを動かす人影を見て『そこに確実になかまがいるという気がして、うれしかった』という」(1月24日付「筆洗」)。

「ひとりで自然に立ち向かう寂しさに耐えられない」、これはすべての人間の抱える宿命を象徴的に物語る言葉かもしれない。「自然」ばかりでなくすべて「生きること」に通じる事柄かもしれない。「そこに確実に仲間がいる」これほど心を喜ばせ励まし、心を支えるものがあろうか。そしてこれは、最初の教会に集った人々の深い思いではなかったか。

かつての「胴上げ型」から現在の「騎馬戦型」、そしてやがては「肩車型」へ。1人のお年寄りを何人の働き手で支えるのかを表現するときに用いられる喩えだ。2050年には現役世代1.2人で1人を支えなくてはならないとされる。半世紀前は現役世代9人で65歳以上の高齢者1人を支える「胴上げ」型だった。今では3人で1人の「騎馬戦」型になった。2050年には国民の4割が高齢者となると推計されている。

そこでこういう提言がある。問題は若い人たちである。これがもう、どんどん生命力を失っているように見える。電車の中でも、仕事のミーティング中も、食堂でご飯を食べている時も、見ていて心もとない。今の元気な高齢者なんて、若い頃はもっとやんちゃでうざいほど元気だったに違いない。とすれば、ますます若い人が心配になってくる。 むしろ高齢者4人が1人の若者を支えなくてはならないのではないか?

今日はマルコ福音書2章からお話をする。この個所は実に生き生きした描写、よく「物語が立ち上がって来る」と喩えられるような筆致で語られている。屋根の上から、病人がつり下ろされて、主イエスの下にやって来る。およそ立体的な描き方である。主イエスの宣教活動の中のひとこまであるが、主イエスと人々の出会いを巡っては、こんな突拍子もないことが次々に起こっていたのだろう。神のなされる出来事がどんなものか、いろいろ思い起こされる記事である。

ここにはいろいろな立場の人たちが登場する。皆さんは、どこにいる人物に自分を重ね合わせて読んでいるだろうか。いろいろ気づかされるだろう。たとえば、主イエスが話をされている民家に集まる大勢の群集の一人かもしれない。たとえば、そこに寝床のまま連れて来られた病人かもしれない。たとえば、病人を運んだ四人の仲間の一人として登場しているかも。たとえば、この光景を見て、心の中で主イエスのことを批判する律法学者の一人かもしれない。あるいは、物語の最後に出てくる、驚いて神を賛美する者たちの一人だということも考えられる。皆さんはどの人に一番近いだろうか。そしてそこで何を感じ思っているだろうか。

しかし、やはり「この4人とひとり」に最も関心が向けられるのではないか。詳細な情報は記されないが、床に寝かされ連れられて来た男は、「中風」つまり「脳梗塞による身体のマヒ」だというから、恐らくはある程度の年配であろう。床を運んできた4人の男たちは、それだけ体力があるだろうから、年齢は分からないにしても、病人よりは若いだろう。この一団は、親子かもしれないし、ひとりのために一肌脱いだ、村の隣組の若え衆たちだったかもしれない。やはり4人が一人を支えるというのが、一番現実的なのだろうか。

この主イエスの運動の中で起こった一こまは、色々なことを考えさせられる。所謂、社会福祉、介助、介護の一番の根元の問題が、この4人の働きに象徴的に示されているのではないか。ひとりの苦しみに、実際に4人の人間が心を合わせることができるか。ひとりでも、ふたりでも、3人でもだめ。私たち一人ひとりに、その4人という人間が具体的に居てくれるか、主イエスは金を使ってでもそのような友人を作れと言われた。そういう直接的つながりのない所では、人間の命は救われないというのか。さらにこれは福祉の制度上の問題ばかりではなく、信仰の問題だとマルコは主張するのである。彼らは主イエスのおられる家の前までやって来る。ところが、主の話を聴く為に大勢の群衆が押し掛けて、行く手を阻まれてしまった。そこで4節以下「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」、それで家の屋上に上り、屋根を引きはがし、上から病人をイエスの下につり下ろした。これを見て、主イエスは「信仰」と言われるのである。皆さんは主イエスのように、こうした乱暴とも言える振る舞いを「信仰だ」、と受け止めることができるだろうか。恐らくマルコは、教会が誕生して30年ほど経って、教会の制度や建物などのハード面では整えられてきたものの、信仰自体が小さく固まって、かつてのダイナミックさを失っていることに、警告を発しているのかもしれない。人は教会にやって来る。しかし、本当に主イエスを必要としている人たちが来るのを妨げ、その道を阻んでいるのではないか。

「生命は必ず抜け道を探し出す」という言葉がある。この地球上の生命は、何度も絶滅の危機に瀕してきた。しかし、そういう危機に際して、必ず生存のための抜け道、今までとは違う道を見つけて来た、というのである。同じようなニュアンスで、パウロは「試練と共に、神は逃れる道を備えてくださる」と語った。「逃れる道」とは、もう一つの道、別のルートという意味である。何も楽して逃げようというのではない。いや逃げることも決して楽ではない。このテキストが語るひとつの重要なメッセージは、ひとつの道が閉ざされると、もう一つの道が見出される、苦し紛れのようではあるが、ということである。折角、病人を連れて、主イエスのおられるところにやって来た。ところが大勢の人が押し掛けていて、行く手を阻まれてしまったのである。到底中に入ることはできない。しかし。「3人寄れば文殊の知恵」と言う以上に、「4人頭を付き合わせれば、神の知恵」である。誰がこのアイデアを言い出したかは分からない。屋上に登ろう、屋根を剥いで、主イエスへの近道を作ろう、上からのバイパスという道が開けたのである。そしてこれこそ「共なる力」であるしそして「教会の力」であるというのである。

教育界で「生きる力」が強調されて久しい。30年前、1996年の「中教審の答申」に由来し、ここから学校で総合学習の時間が始まった。これの教育効果については、幾多の議論があろう。生きる力ではなく、本当は生かされる力だろうと思う。「生きる力というのは、自分がどれだけ強くなれるかでもなく、どれだけ忍耐強い人間になれるかでもなく、どれだけ自立した生活力を身につけられるかといったことでもなく、むしろ弱くたっていい、そんな自分に理解を示し分かってくれて、必要な助けをしてくれる人を探すこと。そういう人を周りに置けるかどうか、それが『生きる力』となって行くのである」。ある人間関係論を専門にしている方が語られた言葉である。私たちは、生きる力というと、自分の能力のことばかり考える。自分が健康でいること、自分が働けること、自分でできること、それが生きる力だと思い込んでいる。しかしそれでは自分が倒れれば、力は尽きてしまい、そこでの取り組みも胡散霧消するから、そんな力はたかが知れている。

人間の問題は、「共に生きる」ことに尽きる。共に生きることが「生きる力」の内実なのである。共に生きるためには、互いの罪を論い、責め合っていては、始まらないであろう。人間、病気をすれば周りに心配をかけると思い、身体が不自由なら、申し訳ないと人は思う。それが高じると、迷惑な自分等、いない方がいいと考える。迷惑だ、不必要だ、邪魔だという思いこそ「罪」の具体的な姿である。そして「赦し」こそが、罪を跳ね返し、生きる力の源である。中風の人に、主イエスは「あなたの罪は赦される」と語る。「4人の人が共に力を合わせて、あなたを此処まで運んで来てくれた。屋根を剥いで、つり下ろすというとんでもない芸当をしてまでね。こういうができることこそ、「赦し」そのものですよ」と。主イエスとの関わり中で、こういう「赦し」が生まれて来る。不寛容な時代、赦せない時代を生きている。生きる力とは「赦し」の力でもあるだろう。

最初の紹介した文章の続き、「道を歩く時も、誰かが屋根の上から投げた雪塊が頭上から落ちてくるので『通りますよう』『おうい』と声を掛け合い進む。雪おろしは支え合いの大切さを確認する作業でもあるようだ。列島に寒波が居座り日本海側を中心に雪が降った昨日、衆院が解散した。未来に向け、いかに支えあうべきかを論じ合う選挙戦が事実上始まった。週末、雪はさらに降るらしい。杉さんは、雪おろしは大変だが、ひと冬に一度くらいは悪くないとつづる。スコップ一杯ずつ根気よく続ければ大量の屋根の雪も消えて『人間の力に対するささやかな信頼と勇気』がよみがえるという。一歩ずつでも前に進むはずだと信じ、国の針路に思いをはせたい」。

乱暴とも言える無名の4人の振る舞いを、主イエスは「彼らの信仰を見て」と語られる。主イエスがそこにおられる、主イエスが受け止めてくれる、何とかなる、信仰は自分の力ではない、主イエスからその力が引き出される。「スコップ一杯ずつ根気よく続ければ大量の屋根の雪も消えて『人間の力に対するささやかな信頼と勇気』がよみがえる」、「ささやかな信頼と勇気」これこそが、私たちの共なる歩みである。立春以後、暖かさと寒さが交互に訪れる。また真冬に舞い戻ったかのような気候でも、確実に時は春に向かう。神のご計画もまた、主イエスの十字架の苦難で終わってしまわない。そこから始まるのである。