2月を迎えた。厳しい寒波が続いているが、今週には節分、立春を迎える。暦の上での春とは言え、季節の移り変わりを思う。時は確実に一日一日の歩みを進めている。この年も「もうひと月」が過ぎた、それとも「まだひと月」か。米国の科学者らは27日、地球滅亡までに残された時間を示す「終末時計」を公表した。残り時間が最も少なかった昨年からさらに4秒進めて85秒とし、公表を始めた1947年以降で最短となった。残りの時間は「もう」か「まだ」か。
「十年ひと昔」というが、皆さんにとって「昔」とはどれ程前のことであるのか。京都の人に尋ねると、「先の戦争で」というのは、「応仁の乱」を指しているらしい、1467年の出来事である。「昔」について、こういう新聞記事を読んだ。「日本リサーチセンター(東京)が2019年に興味深い意識調査を行っている。『時代のスピード感』について。十年一昔とはいうが、実際に『一昔』と感じる年数を聞いた。集計の結果、最も多かったのが5年で全体の33%。次いで3年の19%、10年の15%の順。1年とした人も8%いたという。変化の激しい時代を物語る。調査元も、時間の流れは『従来の2倍速、3倍速が標準感覚になっている』」(1月23日付「小社会」)。録画した動画を倍速で見る、というのが「タイパ」であるという。大学生は配信されたオンライン授業も、倍速で観るのだという。もはや「昔」は10年どころの話ではない、一年ですら「昔」、ならば昭和時代の人間は、原始人である。記事はこう続く、「7年前の調査だから、その感覚も既に『一昔前』のものか。10年、15年前ともなると『随分昔』となりかねないが、(しかし)急ぎすぎると危ういものもあろう」。
さて、今日の聖書の個所、「種蒔きのたとえ」である。厳寒の今、麦は発芽し、茎を伸ばして行く、そういう時期に読み、心を向けるにはふさわしいみ言葉であろう。秋蒔かれた麦の種は、厳寒のこの季節に芽を出し、茎を伸ばし成長して行く。発芽のために、寒さが必要な作物である。植物の中には、発芽や開花のために、過酷な環境が必要な種(しゅ)は多い。寒さは生命の危機を呼び起こす。だから却って生命の力が高まる、ということか、
ただ、このたとえ話を読む時には、少しばかり思いめぐらさなければならないことがある。何が主役なのか、何に焦点が当てられているのか。新共同訳のこの個所には「種を蒔く人」のたとえ、と表題が付されている。つまりこの話は「種を蒔く人」が主題なのだという。しかし可能性はそれだけではない。蒔かれた「土地」、あるいは「種」、それとも「収穫」、どれに注目しても、この話は色々に関心を引き出してくれる。
「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」と主イエスは語られる。そもそも一粒の種は、どのくらい多くの実りをもたらすのだろうか。小麦は人類が最も早く栽培を始めた穀物とされるが、収穫率は低い状態が長く続いた。古代ローマでも種1つを植えて、収穫できるのは2、3粒程度だった。今に伝えられるローマ帝国の統計で、最も「良い土地」の収穫率は、6、7粒程度であったと記録されている。中世ヨーロッパになってもほとんど同様だった。収穫率が目に見えて向上するのは10世紀以降で、ヨーロッパ地域で「蒔いた種の10倍の収穫」が見込めるようになったのは、ようやく19世紀になってからのことである。現代では、20倍程度かそれ以上の収穫が望めるようになった、という。品種改良、肥料、栽培法等の技術が格段に進歩した現在でも、主イエスのいう「30倍」に満たないのである。ましてや「100倍」等とは夢のまた夢である。神の国がいかに広大で豊穣なのかが、数字を聞くだけで思い偲ばれる。
「低い収穫率」を知れば、この「種を蒔く人」の乱暴なやり方も頷くことができる。お米作りならば、前もって種もみをプレートに入れて発芽させ、苗代を作り、それを小さく分けて田植えをしていく。田植えも、今で言うソーシャル・ディスタンスではないが、密にならず疎にならず丁度良い間隔を開けて植え、計画的に育てていく。ところがこの種蒔きのやり方はどうか。蒔いた種は「良い土地」ばかりか、「道端」、「石だらけ」、「茨の中」に落ちていく。どこであろうが、所かまわず、何とおおざっぱ、適当、乱暴なやり方ではないか。
一昔前、子どもたちが幼い時に、我が家も節分の豆まきをした。「鬼は~外」と部屋に豆を蒔くと、その頃、飼っていた犬が待ってましたとばかり、蒔いた傍から豆をうれしそうにみな食べてしまい、翌朝、お腹を壊していた。なぜこんな節分の豆まきみたいなやり方をするのか、と言えば、そういうやり方をしなければ、麦は収穫できないからである。収穫量が少ない、そういう穀物に対し口を糊するほどの収穫を期待するためには、とにかくたくさん蒔いて、たくさん実るのを待つしかない。整然と畝を作り、丁寧に種を蒔き、では食べる分が追いつかないのである。ばらばらとたくさんの種を蒔いて、蒔いた後に鋤をもってきて畑を耕し、土に鋤込み、種が芽を出すのを待つのである。後は任せるしかない、これが聖書の世界の農業そして、そして信仰の比喩なのである。
ところで、日本語の聖書では表れない、中々翻訳しにくい要素がこのたとえには含まれている。単数、複数の訳し分けの問題は、やっかいである。よくこの国の文章作法では、主語がはっきりと記されないことが語られる。誰が誰に対してものを言っているのかが、いささか不明確な場合がしばしばある。さらに「わたし」は「私個人」のことでなく、「私たち」を、「あなた」は「あなたがた」を暗黙の裡に意味している場合が多いから、厄介である。さらにはこの国の「はい(YES)」は「いいえ(NO)」をも含んでいるのである。
今日の譬では、「種」に単数、複数の違いがある。どれが単数で書かれ、何が複数なのだろうか。それを区別して翻訳するとなると、面倒なことになる。「種」を複数で表す、「種ら、種たち、種ども、種だね」、どれもだめだね、という印象である。学者の中には、翻訳は諦めて、事柄がはっきりすればいいだろうと「種(単数)」「種(複数)」等と記したりする。学的な良心は分かるが。ここであらぬところへ落ち、転がって行く種たちがある。道端に落ち、石地に落ち、茨の中に紛れ込む種がある。これらの場所に置かれた種は、みな単数形で表される。そして「良い地」に落ちた種たちがある。この種たちは、複数形である。「良い地」とは何か、一体、どこが「良い地」は、語られていない。但し、蒔かれた種がちゃんと芽を出し、伸びてゆき、実を付ける場所が「良い地」なのである。それがどこかは、人間の目には隠されているのかもしれない。私たちはどうも、道端に落ち、石地に落ち、茨の中に紛れ込む種ばかりを見ている節がある。それでうまくいかなかったと失望落胆し、ついには己の手を引っ込め、諦めてしまう、やんぬるかな、と。しかし主イエスは言われる、「ほかの種は、良い地に落ちた」。「良い地」に落ちる種たちがある。決してそれは、虚しく、僅かで、取るに足らない、何にもならないものではない。みな、元々は小さな種である、吹けば飛ぶような芥子粒である。その種たちが「30倍、60倍、100倍」に育つのだ。その吹けば飛ぶような粒を、大きく育てる方がおられるのだ。
「四十にして惑わず」という物言いがある。自分の人生の方向付けができる年齢はいつ頃なのか、孔子は「40歳」と答えたわけだが、この国の人の感じる「不惑」は、どの年齢なのか、「日本リサーチセンター」の調査によれば「50歳/60歳」の時代だという。「全体では「50歳」が23%で最多、僅差で「60歳」が20%で続き、通説の「40歳」は13%で第3位。そして4位は「81歳以上(回答選択上の上限)」だったという。「永遠の未熟感覚」とでもいうべき意識も垣間見られる。「スピードアップ」する時代感覚の中、一方では「人生100年」の長寿化も相まって、「不惑」を自覚できるラインは押し上げられている。
最初に紹介した記事はこう続く、「東京電力が一昨日、新潟県の柏崎刈羽原発6号機を再稼働させた。福島第1原発事故から間もなく15年。被害はいまも続き、復興も廃炉も道半ばだが、その原因企業が再び原発を使い始めた。しかも不安や疑問が渦巻く中、トラブルのためわずか1日で運転を停止する結果に。信頼回復は遠い」。「もう昔のことだ」、といってないことにしてしまう。しかし人間は「結果」からは自由になれない、そういう時の積み重ねの中で、「昔」とは何をもっていうのか、とりわけ痛み傷ついたものが、「癒し」や「回復」をするのにかかる時間、さらに「復興」やがて「収獲」までの道のりは、「タイパ」という感覚とは、相いれないのではないか。「ひと昔」が短くなっているのは、そして逆に「不惑」が長くなっているのは、ひとえに人間の「忍耐」「信」の力が失せて来ているからであろう。神の収穫の時を待てない、人間の浅はかさがある。
良い地に落ちた種、それは「神の麦畑」の収穫をもたらす。一粒が「30倍、60倍、100倍」になる日が訪れる。確かにかつての信仰者たちは、人生の中にこのような思いがけない、神のなさる大いなる収穫を見て驚き、自分たちの思い上がりを悔い改めつつ歩んできたのである。タイパだ、コスパだといって、忍耐できない現代の人間の短気さ、短絡さがある、その一方で神の忍耐の中にあって、私たちは生かされているのである。主イエスの十字架の死の後で、見えない神の働きによって、復活が準備されたように、暗い地の中で、ひとつの種の成長が起って行く。寒い冬はそれに触れる時かもしれない。桜の花も、冬の寒さが厳しいと、美しい色を出すという。次の春の開花が楽しみである。2月の半ば、18日に今年の受難節が巡って来る。良い地に蒔かれたな種が、土の中にあって密かに成長するように、主イエスのよみがえりの時を待ちたいと思う。