「イエスは目を上げて(改訂)」ルカによる福音書21章1~9節

小さな子どもを育てるあるお母さんの声を聞いた。「2歳の娘は保育園の担任の素顔を、ほとんど見たことがないようだ。普段から一緒に遊んでいるが、保育士は感染防止のためマスクを着用する。担任の素顔の写真を見せたら首をかしげた」。私たちにも憶えがある体験である。最近、マスク姿しかその人の顔を見ていない。その人の素顔はどんなであったか思い出せない、というのは極端であるにしても、一概に「見る」といっても、人は本当の所、何を見ているのか、何を見ようとしているのか。初詣等でたくさんの人々が押し合いへし合い、おしくらまんじゅうのように集まっている所に足を向ける。そこで私たちが見るもの、見たいものとは何なのか。

5節にこう記されている。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」。神社仏閣を訪れると、数々の「奉納品」が山と積まれている光景を目にすることがある。「米、酒、塩、野菜」等々、実り、収穫を感謝して、現物を備えるというのは、古来、人間が普遍的に行って来た宗教儀礼であった。キリスト教でも、ある国の教会では、今もそうした供物(例えば鶏や子豚)が礼拝の際に持ち寄られ、礼拝後には、会員バザーで売買されると聞いたことがある。聖書の世界、古代メソポタミアから地中海世界でも事情は同じで、神々を祀る神殿や祠には、さまざまな花や産物が奉納されたようだ。ギリシャの遺跡からは、青銅でできた「鼎」(三本足の鍋、薪の上に据えて煮炊きに供する)が沢山出土する例があるが、これは神々に、供えられた食物を鍋ものにしてお召し上がりください、ということだろう。この大寒の寒さ厳しい折には、有難い趣向と言えるだろう。コロナ禍でなかったら、この教会でも、この時期「鍋の会」が催されたはずである。

さらに「見事な石で飾られている」と神殿の外側が言及されている。「見事な石」、名高いソロモンの神殿の威容からすれば、いささかみずぼらしかった捕囚後に再建された第二神殿を40年かけて、最初の神殿に勝るとも劣らないたたずまいに大改修したのは、かの悪名高いヘロデ大王であった。彼は自らの人気取りのために、贅を尽くした装いを神殿に施したのである。それが「見事な石」と人々から評された神殿の外観であった。大王はエーゲ海の島々から切り出された真っ白な大理石を、鏡のように磨かせて神殿の外壁を覆い、金で縁取って豪奢に設えたのである。青い空を背景に、神の住まいはまばゆく輝いたことであろう。ユダヤ人は素より、異邦人も物見遊山のために大勢が足を向けたのである。神殿は多大なインバウンド効果をももたらしていたともいえる。

「見事な石と奉納物で飾られている」この光景はまさにイスラエル・ユダヤの栄光と繁栄を物語るものとして、人々理解されていたことが、このみ言葉から知れるのである。人々は、見えない神ではなく、目に見える人間の栄光と繁栄の有様に目を奪われ、ひたすら凝視したということである。そして、その渦中で主イエスが語られた発言こそ、今日の聖書個所の眼目である。このきらびやかな装いと人々の喧騒の中、主イエスが真っ先に目を留められたのは何か、「献金箱(賽銭箱)」であったという。わざわざ「目を上げて」というのだから、よほど目立つように置かれ、人々が仰ぎ見るような大きさ、立派な設えのものだったことが伺われる。

なぜいろいろと見るべき物はある中で、殊更「献金箱」に目を留められたのか、「あなたの宝のある所に心もある」と鋭く見抜いていた方である、そこに人間の真実が、はっきりと表れているからだろう。「金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた」という。神殿の賽銭箱に、多額の金が投げ込まれた時には、高らかにラッパが吹き鳴らされて、その名誉が称えられたとも言う。丁度、福引の大当たりで高らかに鐘が鳴らされる如くに、けたたましい音は、人々の耳目を集めたことだろう。一説には、金持ちたちは、楽隊を引き連れて参詣し、献金箱に金を投げ入れる時に、高らかにラッパの音を響かせたとも伝えられるが、いくら何でもそこまでしたら悪趣味ではないか。「あの金持たちは有り余る中から献げていた」という主の辛口の批評も頷ける。

そういう金持ちたちの振る舞いとは対照的に、貧しいやもめがやって来て、賽銭箱の前に立ち、彼女もまた自らの献げものをした。レプトン銅貨2枚、従来2レプタと訳されていたが、レプトンは、まあ100円程の金額か、スズメの涙ほどの最小の通貨である。しかしそれは、彼女の一日の生活費すべてであった。入れ代わり立ち代わり、さまざまな人々が賽銭箱に向かい合って、神への献げものをしている、その有様を主イエスが目を上げて、つまりじっと見ておられたというのである。皆さんはどうか、そういう主イエスの眼差しを、献金をする時に、意識するだろうか。どのような気持ち、思いを内に秘めているかはともかくとして、人々は何らかの祈りを胸に秘めて、金を投げ入れるであろう。

皆は「見事な石、おびただしい奉納物」に目を見張っている丁度その所で、主イエスはささやかだが、決定的な問いを私たちに投げかけている。3節「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」その威容に圧倒される巨大な建造物を前にして、誰が、すずめの涙ほどの金額かもしれないが、今日の生活費すべてを投げ入れる年老いたやもめのことを、思い起こす人がいるか。高らかなラッパの音を聴いて、「さすがお大尽は違う」と感じる人はいるだろう、だがあのやもめのことは?誰が憶えているだろうか。

ただ言えることは、神殿という場だけでなく、国でも社会でも政治でも、人間が集まって暮らし、生きている場所で、やもめの2レプタがまったく思い起こされることなく、全く無視され、顧みられないところは、人の幸いとはやはり無縁な場所だと言えるのではないか。そしてそこが神殿であれ、教会であるとしても、今どれ程立派に装われているにしても、立ち続けることはできるのか。6節「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」主イエスの言葉は、徹底して辛辣である。「その基までも覆されて、全く形を留めなくなる時が来るであろう」。聖書学者はこの主イエスの発言が、十字架への運命を決定付けたと指摘するが、実際、紀元70年に起ったユダヤ戦争によって、この言葉の通り、エルサレム神殿は、ローマ帝国の軍隊によって、地の基まで破壊されて、跡形残さずに崩れ落ちるのである。

普通、人間の感覚ならば、破壊され、崩壊したらそれでお終い、終結と判断されるであろう。しかし人間の終わりから始まるのが、聖書の論理、神の物語なのである。8節「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない』」。

この国で最もよく知られている絵本のひとつが、ウクライナの民話を基にして編まれた『おおきなかぶ』の話であろう。日本語の翻訳は内田莉莎子の名訳で知られている。「おじいさんがかぶの苗を植えました、あまいあまいかぶになれ、おおきなおおきなかぶになれ」。とてつもなく大きなかぶができたので、引き抜こうとする、「うんとこしょ、どっこしょ、それでもかぶはぬけません」。このリズムとテンポの良いフレーズが繰り返される。大きなかぶが抜けないので、いろいろな人々、いろいろな動物が手助けにやって来る。その中で皆さんが一番目を留めるのは誰だろうか。おそらく最後にやって来た小さなねずみだろう。応援を求められて来て、宿敵のはずの猫に、長い尻尾を巻きつけて、一生懸命、引っ張るのである。この小さな者の小さな力があってこそ、「やっとかぶはぬけました」なのである。ところがもうひとり、力を込めてかぶを引っ張っている見えない者がいる、それは誰か。

読み聞かせをすると、子どもたちは声を合わせて掛け声をかける。「うんとこしょ、どっこしょ」、皆、自分もかぶを引っ張っているような真剣な面持ちで、声を出している。「やっとかぶはぬけました」。おじいさんの喜びは、おばあさんや孫、動物たちの喜びであり、この物語を読む人すべての喜びでもある。この喜びを共にすることが、実はこの絵本を読むことなのである。

いつの時代でも、いたずらに危機をあおる人々がある。大げさで極端な言説で、人々の耳目を集め、「敵と味方、善と悪、正義と不正、損と得」という具合に、あれかこれかの狭い観念の中に、人々の心と思考を押し込めて、自由を奪い、がんじがらめにするプロパガンダが語られる。私たちは、それによって目をくらまされ、引きずられるそうになる。「敵」と呼ばれる得体の知れない存在に恐怖もする。その時に、神殿の大伽藍を前にして、人々の喧騒と、ラッパの音の中で、主イエスが何を見ておられるかを、しっかりと心に刻みたい。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」。ここには感謝がある、温かさがある、そして何より喜びがある、それらに共に繋がることこそ、神のみ前にあることではないか。