「一粒の麦は」ヨハネによる福音書12章20~36節

こんな話がある。ある小説家の娘を好きになり、結婚を許してもらうべく、青年が小説家のもとを訪ねた。挨拶しひととおりの話をした後、「ちょっと待っていなさい」と小説家は席を立った。程なくお相手の娘さんが部屋に入ってきて、「答えは背中に」というので見てみると、半紙に文字が書かれている。そこには「献呈 作者」と記されているではないか。
小説の裏表紙、「扉」の後ろ部分に、さりげなく一文が記されていることがある。「妻に」あるいは「恩師に」という「献呈や謝辞」のことも多いが、先人の、よく知られている有名な文言が引用されていることが多い。その数行に満たない文章で、小説の中身が透けて見えるというのは、憎い演出であろう。
ドストエフスキーの最後の未完の大作、『カラマーゾフの兄弟たち』、その見返しには「ひと粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただひとつにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という今日の聖書の個所の、あまりに有名な聖句が記されている。これによって、この小説がどのように展開するかが、おぼろげながら見えて来る。主人公は、きっと「一粒の麦」として生きて、そして死んでゆくことになるだろう。さらにこの小説家は、この物語を通して、実は、神、そしてイエス・キリストについて語りたいのだ、そんなことを思わせる仕掛けともなっている。
さて、今日はヨハネ12章20節以下の部分である。ヨハネ福音書の、主イエスの受難予告の部分である。この教会のある方が、「ヨハネ福音書の文章は、あまりに高尚で凡人の頭では、なかなか理解しずらい」と言われたが、実は著者はギリシャ語が苦手で、文書が下手だから、というのが理由であったりする。
ギリシャ人、異邦人、外国人が、主イエスの弟子たちのところにやってきて、主イエスへの面会を取り次いでくれるように頼んだ。弟子たちは、それを受けて師匠にそれを伝えると、主イエスは言われる「人の子が栄光を受ける時が来た云々」。話が真っすぐに噛み合っていない。面会に来た外国人に、唐突に、十字架のみ苦しみが告げられる。これでは会いに来た人も面食らうことは間違いない。「自分たちは何かとんでもなく悪いことをしたのか」。おそらくヨハネの教会には、たくさんのギリシャ人が集っていたのだろう。そしてその中から信仰を言い表す者も多かった。そこでユダヤ人でなく、異邦人の救いの問題が盛んに議論されたのだろうと思われる。ユダヤ人と異邦人、この両者の間に、「救い」の区別や差別はないのか。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、等しく人間、皆、罪人、神のみまえに差別のあるはずはない。
だから26節のみ言葉の最後「わたしに仕える者がいれば(誰であろうと)、父はその人を大切に(愛して)くださる」。これを言いたいのだが、いかんせん文章が下手だから、回りくどく、ややこしいやり取りになってしまっている。神は、求めて来るもの、主イエスに従う者に、愛を持って受け止めて下さる。それは、その人が好い人であるからとか、善行を積んでいるからとか、精進しているから、とかいう人間的な理由からではない。ひとえに神の独り子、主イエスの十字架のみ苦しみがあるからである。ただ十字架によって、人間の血筋や、出自、どこの国出身か、身分によらず、また信仰や行いにもよらず、神の救いはもたらされる。それが神の栄光の表われそのものである。
こうした救いの議論の間に、あの有名なみ言葉が挟まれているのである。24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスの十字架は、「一粒の麦」の死だ、というのである。たとえ文章はまずくても、ここにヨハネの慧眼が光を放っている。ヨハネは、他の福音書で記している「種まきの譬え話」をちゃんと知っている。農夫が種を蒔く、種は色々の地に落ちる。良くない地に落ちた種は、実を結ばないが、良い地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍にもなった」。ところがヨハネは、その有名な譬えをそのまま再録することなく、一歩進んで、より細かな目を持って、収穫の「現実」をあらわにしようとする。悪い地に落ちて実を結ばなくても、あるいは良い地に落ちて、多くの実を結んだとしても、そこには一粒の麦の「死」、という厳粛な事実がある。「死」なしに、収穫も生命も、何事も生起しない。
こんな話がある。ある裕福な商人が、孫ができたお祝いに、何か目出度い言葉を書いて欲しい、家宝にするからと、一休禅師のもとを訪れた。こころよく引き受けた一休禅師の書いた言葉は、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という言葉であった。目出度い言葉をお願いした商人は、カンカンに怒って、「死ぬとはどうゆうことだ」と一休禅師を問いただした。すると一休禅師は「では、あなたは、孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬの方がいいのですか」と聞き返したそうである。ますます怒って帰ろうとする商人に、一休禅師は続けて「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほど目出度いことがあろうか、これが逆になったらどうする」と、さとしたそうである。
全て生命あるものは、いつか終わりを迎える。他の生命の犠牲の上に、多くの生命は支えられている。やたら生命は粗末にしてはならない根拠である。ところがこの生命の厳粛な実相を「多数のためには、いくらかの犠牲は仕方ない」という多数派の尻尾切りの論理にすりかえる向きがある。ヨハネ福音書では、大祭司カイアファの口にこの論理を語らせている。18章14節「ひとりの人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」、このようにヨハネ福音書には、まっすぐに事柄に向かおうとする姿勢がある。
「一粒の麦」とは、主イエスの十字架に向かう歩みの譬えであるが、ただ主イエスおひとりのこととして語ろうとしているのではないことに注意したい。「わたしに仕えようとするものは、わたしに従え」。主イエスの後について行く人もまた、「一粒の麦」としての生き方を辿ることになる、とヨハネは言うのである。「臆病者の私には、十字架なぞ、滅相もありません」と言われるかもしれない。しかし、どの人も、誰のものとも比べられない十字架を知らず知らずに背負っているのである。時にその重さに悲鳴を上げ、時にころびまろびつしながら、負わざるを得ないものを、仕方なく担っているのである。
それでも何とか担おうとするのは、先に行く主イエスの後ろ姿が見えるからである。何度も転びながら、倒れ伏しながら、歩んで行かれるのである。それを見上げると、わたしも、わたしの歩みで、わたしの足取りで、歩むことが出来る。それが「一粒の麦」の姿である。
聖路加国際病院で労された医師、故日野原重明氏はさんは、1970年、過激派である赤軍派が起こした「よど号」ハイジャック事件に遭遇された。若い過激派のメンバーが飛行機の乗っ取り、爆発物を体に巻き、日本刀を手にしていたそうである。乗っ取り犯は、朝鮮海峡上を飛んでいるとき、乗客へのサービスのつもりだったのだろうか、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌と、その他の本の名を放送するから、何を読みたいか手を挙げよ」と言って金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集、次いでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などを挙げたそうである。日野原氏一人だけが、『カラマーゾフの兄弟』を借りたいと手を挙げたら、文庫本を膝に置いてくれた。本を開くと聖書の言葉が目に飛び込んできた。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」「もしかしたら私は死ぬかもしれないが、その死は何かの意味を持つのではないか」、このみ言葉を目にすると、「気持ちが少し楽になった」と回顧しておられたという。
「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」、どんな実が結ばれるかは、ずっと後のお楽しみである。ただ神のみ前で、それが明らかにされる。「父はその人を大切にしてくださる」。「大切にする」とは、いろいろ面倒を見る、手入れをする。肥料を与え、水をまき育てるということである。それはその「一粒」を、深く心にかけていてくださるからである。「大切にする」とは「愛する」のまさしく言い換えである。一粒の麦の死もまた、神のみ手の内にある。だから私たちは、安心して生きて、そして死ぬことができるのである。