「不安を抱いた」マタイによる福音書2章1~12節

年の暮れである。今年も例年のごとしで、あわただしく過ぎようとしている。1973年にこんな事件があったという。愛知県の信用金庫のある支店で取り付け騒ぎが発生した。1日で預金者約5千人が押し掛け、約14億円が引き出された。一説によると、発端は就職先を巡る女子高生の会話。「銀行は危ないよ。強盗が入るから」。それを曲解した人から口コミで「その銀行の経営が危ない」とのデマが町中に広まった。翌日付の新聞にこんな一文が載ったという。「洗剤やトイレットペーパー、砂糖の買い急ぎ騒ぎは、ついに金融にまで波及した」。この年は石油ショックが起きて、社会が混乱していた。そんな時、デマは想定外の結果をもたらす。昔の話と高をくくってはいけない。似たような騒ぎは2003年の師走に佐賀県の地方銀行でも起こった。こちらの原因は虚偽メール。一気に拡散し、預金約500億円が解約された。(西日本新聞12月14日)不安に駆られた時の人間の行動が、端的に表れている。私たちは大丈夫だろうか。

京都清水寺で行われる、恒例の今年を表す漢字一字は、「令」であった。この5月から新しくなった元号の一字であるから、当然の感は否めない。この漢字は、元々「呼び集められた人々が、ひざまずいて神の言葉を享ける」形を表しているそうだ。そこから「命令」や「指令」という意味が生じたと説明される。

聖書の民イスラエルは、神の言葉と共に生きた人々である。最も直接(ダイレクト)には、「神の言葉」は預言者によって語られた。人々は、語られた「神の言葉」に対して、どのように反応しただろうか。神の民であるから当然「ひざまずいて虚心に神の言葉を享け」たのだろう、と思いたくなる。旧約の預言者のエレミヤが、神の言葉を聴いた時の人々の様子を、細かに伝えている。エレミヤ書20章7節「わたしは一日中笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」。

「神の言葉」を語ったがゆえに、エレミヤは人々から、脅しや脅迫、特には暴力まで被ったことが伝えられる。そしてその人々とは、神を知らぬ異邦人ではなく、他ならぬ神の民、イスラエルの人々なのである。どうして人々は、エレミヤを攻撃したのか、神の言葉に聴く耳を持たず、却って神の言葉を闇に葬ろうとしたのか。

今日の聖書個所は、マタイによる福音書のクリスマス物語である。おなじみ「東からの博士たち」がエルサレムにやって来る。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。これを聞いてヘロデ王は「不安」を抱いた、という。エルサレムの人々も皆、同様であった、という。この章句について、なぜ「ヘロデ王が不安を抱いたか」について、こう説明される。「ヘロデは、自分の他にユダヤ人の王が生まれたと聞いて、自分の地位が脅かされると感じて、不安になった」。確かにヘロデは慎重な性格で、策略に長けていた。ローマ帝国に巧みに取り入り、ユダヤの王としての地位を盤石なものとしていた。但し、イドマヤ出身なので、純粋なユダヤ人ではなかったから、そのあたりにも、周到に気を配った。ユダヤ教への最大限の敬意の表明として、40年もの年月をかけて、エルサレム神殿を改築したのである。地中海から高価な大理石を運ばせ、神殿の壁をすべてこれで覆い、装ったというのである。これでエルサレム神殿は、近隣の諸外国にも評判の場所となり、数多の異教徒も参拝する名所となったのである。ユダヤ人とて悪い気はしなかったであろう。そして民を過剰に刺激しないよう、ユダヤの絶大の権力者でありながら、神殿に対しては、不敬のそしりを受けないように身を慎んでいた。

その絶対の権力者が、「不安」を感じている。その原因は、東方の博士たちがもたらした情報、「ユダヤ人の王の誕生」、しかも「星が現われたから」というまるで「あてにならないような」情報である。そして、考えてみれば、たかが「赤ん坊の誕生」である。生まれたばかりの赤児が、剣を持って自分を暗殺に来るとか、クーデタを起こすとか、ありえないだろう。それなのにヘロデは「不安」でたまらないのである。

さらに注目するのは、「エルサレムの人々も同様であった」と伝えられていることである。ヘロデばかりか、エルサレムの住民の不安を、皆さんはどう考えるか。ヘロデの利権にくっついて甘い汁を吸っていた輩も多かろう。ヘロデが倒れたところで、同じような権力者が自分たちの前に立つだろう。また同じように与すればいい。大方の市井の人々は、利害は絡むが、「不安や心配」という心情ではないだろう。

わたしたちは「空気」に支配されている――。山本七平氏が日本社会の非合理的な意思決定を「空気」の仕業だと説いたのは、40年以上も昔である。多くの人が戦争を記憶にとどめていた時代、山本氏はこの怪物が無謀な戦争を引き起こし、現代もこの怪物は生きていると指摘した。その怪物とは、実は「不安」という名、「心配」という名前、そして「思い煩い」という妖怪ではないだろうか。

ヘロデは、この不安に突き動かされ、生まれたばかりの幼子を殺害しようとする。東方の博士たちを泳がせ、しばらく様子を伺い、正確な情報を収集したうえで、早急にしかるべき手を打つ。今も昔も国家とか権力とかが用いる方法は変わらない。そして出し抜かれた時には、そこいら一体に武力攻撃を仕掛ける。しかし敵とは言うものの、実は、本当の相手は、得体のしれない「不安」なのである。山本氏が言ったように、それは「空気」みたいなものだ。見えないのである。その不安の根、はどこにあるのか。主イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われた。この言葉の理解には誤解があるように思う。「明日のこ考えるな」というのではない。「明日は明日の風が吹く」という言葉がある。これは明日に成ったら状況が変わり良くなる、という意味ではない。明日にはまた明日の悩みや困難が待っている。だから人間は明日のことを考える、思う。しかし問題は「煩う」ことなのである。明日が心配で、不安で、たまらなくなってしまう。不安に呑み込まれてしまうことなのである。その「不安」とは実は「死」から生まれて来る。人間は絶えず「死に脅かされている」から、不安になる。そして神の言葉は、私たちにその現実を突きつけるのである。

自分が重い病気と知ったとき、ホッとする気持ちもあったという。3年前の春のことだ。サッカーJリーグ・アルビレックス新潟の早川史哉選手。大学を卒業し、開幕スタメンでデビューした早川選手は、体が変だった。だるい。ひどい疲労感。自分のプレーができない試合が続き、情けなくなった。2カ月後に急性白血病と告げられた。体の異常は自分のせいではなかったんだ、と思うと、えたいの知れない不安は消えた。そういう意味での安堵(あんど)感。しかし絶望感が待っていた。抗がん剤治療、骨髄移植手術、1年間の入院。病院内で知り合った少女に闘う力をもらった(今年10月出版された自著「そして歩き出す」徳間書店)。中学3年のその少女は、小児の白血病で隣の無菌室にいた。早川選手のことをお母さんから聞き、輪ゴムで作った花の形のアクセサリーを届けてくれた。色はオレンジと青。アルビレックスのチームカラーだ。お礼を言いに行くと、恥ずかしそうに「頑張ってください」。

真実を知ることで「不安」は消える。しかし、その真実の先に「絶望感」が襲う。それを支える力となったのは、同じ病に苦しむ、ひとりの子どもの「輪ゴムで作った花の形のアクセサリー」なのである。高価ではない、特効薬でもない、病に苦しむ、非力な中での、その子のできる精いっぱいである。「飼い葉おけの中の幼子」は、正にそれである。「貧しく、小さく、汚れ、病に苦しみ、非力な中での、神の精いっぱい」である。この精いっぱいに私たちは生かされる。