「あふれる豊かさの中に」 ヨハネによる福音書1章14~18節

謹賀新年、主の平安の内に新しい年を迎えられたことと思う。

昨年の新語、流行語大賞は、ラグビーがらみの言葉がいくつも取り上げられた。人気の点でいま一つと危惧されながらのワールドカップ開催ではあったが、大方の予想に反して思いがけなく好成績を収めた日本チームに、「にわかファン」もついて大いに盛り上がった。「ジャッカル」「4年に一度じゃない。一生に一度だ」「笑わない男」等が盛んに人々の口に上った。その中でも最も多く引用されたのが「ワン・チーム」、日本チームのスローガンから生まれた流行語である。「(出身地や文化などの違いを乗り越え)一つに結束したチーム」という意味で使われている。確かにそれが強く求められる時代であろうし、この国にとっては、大きな課題、宿題でもあろう。教会もまた使徒言行録の時代から、この課題をめぐって歩んできたといっても良いだろう。さてこの新しい年の「流行語」は、いかなる言葉が取り上げられるのだろう。

いつの時代でも、時代のはやり、その時代に、多くの人が目を向け関心を傾けた事柄がある。古代、パピルスや粘土板といった記録手段を生み出した人類は、例外なく医薬に関する記述を残している。どうしたら病やけがのつらい症状が癒えるかは、「何を差し置いても記録しておくべき事柄だったに違いない」(佐藤健太郎著「世界史を変えた薬」)。なる程、聖書にも医療や医薬に関する言葉がたくさん残されている。主イエスの口からも、それにまつわる印象的な言葉がいくつか見出させる。「医者よ、自分自身を癒せ」また「健康な人に医者はいらない、いるのは病人である」。やはり聖書の時代もまた、「病」という悩みの中に人が置かれ、それを治すために、現代的な医療には程遠いが、「医者や医薬」が人々の大きな関心を集めていたことが了解される。

今日のテキストに、ヨハネが福音書を書いた当時の、人々の間に合言葉のように流行していた言葉、流行語が記されている。16節「満ちあふれる豊かさ」という、聊か日本語にするとぎこちなく長い言葉だが、元もとのギリシャ語では「プレーローマ」という単純な言葉が用いられている。単に「充満」という訳語でもよいのだが、「中身のある力が、みなぎり、張り詰め、今にもあふれんばかり」という原語の持つニュアンスを少しでも再現しようとした工夫が伺える。当時のヘレニズムの思想の中心主題は、やはり「真理」である。この世では、人も物も何を取っても不完全だが、真実の世界は「完全」な世界である。人間の描く「円」は、どんなに正確に精密に描いても、どこか歪んでいる。しかしそのゆがんだ図形でも「円」だと認識できるのは、完全な世界を意識しているからだ。

では真理の世界、真実の世界とはどういうものか。古代の人々は「プレーローマ」「充満の世界」だと考えたのである。中身がぎっしりと詰まっている。ぎゅうぎゅう詰めになっている、力がみなぎっている。確かに饅頭でも弁当でも、しっかりと中身が詰まっていると、得したと感じるものである。この反対は「すか」である。すかとは「期待外れ」や「あてがはずれる」こと。またここからクジのハズレ(はずれクジ)のことも「すか」という。すかは「肩透かし(かたすかし)」からきたもので、肩透かしを食うと同様、すかを食う(=期待はずれな目にあう)、すかを食わす(=本質・核心をつかませず、はぐらかす)といった使い方もする。関西に多い表現だろうか。

確かに、ぎゅうぎゅう詰めに人がいて、押し合いへし合いしている場所と、人がほとんどいなくてがらんとしている場所、どちらが人間の心をとらえるかと言えば、やはり人が詰めかけ、込み合っている場所ではないか。最近は、行列に並ぶことも「ファション」しゃれていると捉える向きがあるが、どうだろうか。押しくらまんじゅうになるのはごめんだと、嫌いだ、という人でも、他の人がほとんど振り向きもしない、目を留めないような閑散とした場所には、敢えて行こうとは思わないのではないか。そういうところは寂しいし、楽しそうでもない。誰もいないところにこそ、本当の真実がある、真理はスカスカなものだ、と言い張ってもおよそ説得力がないではないか。正月になると、初詣に、どこに、どれほどの人出があった、という話題がニュースに上るではないか。教会はほとんど話題にならないではないか。

もっとも真理には「無」という考え方がある。但しこれにしても、単に「何もない」、「虚無」ということではない。そもそも「無」とは「際限のなさ」「無制限」「無限」表す概念なのである。つまり「無」とは、すべてを生み出す源のことなのだ。大河の源流を探る旅というものがある。世の中には「ナイル川の源に行きませんか」というツアーも企画されている。その源は、岩から染み出るほんの一滴の水、ひとしずく、だったりする。それが集まりいつしか「大河」となるのである。

さらにまた人は、水墨画や枯山水等の真っ白の余白に、さまざまな風景や文章を空想して楽しむではないか。何もないということは、そこに何でも思い描くことができる、自由に思想を幅絶たせることが出来る、ということなのである。だからごちゃごちゃと余白を全て埋め尽くしてしまうと、息苦しく、こころが落ち着かなくなる。

問題は「神のプレーローマ」とは何なのか、なのである。人間の創り出す「充満」は、実はスカスカだったり、上げ底だったり、見てくれだけだったりする。あるいは人気が高い、人が行列して並ぶ、押しかけるという類のものであろう。ともかくぎっしりと中身があるように見せるために、混ぜ物をしたり、誤魔化したり、声高に言いつのったりする。

ヨハネは「神のプレーローマ」をこう告げる。14節「引用」、言葉が肉となった、それこそ神の栄光の姿であった。だから恵みと栄光に満ち満ちていた、というのである。ギリシャ人は「肉体」を卑下し、「精神」を重んじた。肉体は偽りの真理の表象であり、精神的なもの、魂やロゴスこそ、本当の真理への道であった。「肉体は魂の牢獄」とも言われた。ところが神は真逆な出来事を起こされる。「神の言葉」が人間の姿になって、この世に生まれ、肉体を身にまとったという。それこそが神のプレーローマの在り方なのである。

この世は確かに完全な世界ではない。歪んでいる、不誠実である、偽りがある。有限で不完全な世界である。病があり悲しみがあり、争いがあり、涙があり、死がある世界である。その世界へ神が踏み込んでこられた。自ら見える有限な人間の姿となってやって来られた。これこそ神の豊かさのしるし、栄光の証なのである。神の愛は、小さく縮こまっていない、豊かな大河のように源からあふれ、ほとばしり出るものである。自らの天の国だけに収まり切れず、私たちの世界にあふれ出て、悲しみの世界、死の世界を覆い、潤すものなのである。神の御子、主イエスが人間として、幼子として地上に生まれた。飼い葉おけという最も低い所に誕生したのは、この神からあふれ出る愛と恵みが、制限や限界を持たないからである。

ひとつの詩を紹介したい。川崎洋「いま始まる新しいいま」

「心臓から送り出された新鮮な血液は/十数秒で全身をめぐる/わたしはさっきのわたしではない/そしてあなたも/わたしたちはいつも新しい。

さなぎからかえったばかりの蝶が/生まれたばかりの陽炎の中で揺れる/あの花は/きのうはまだ蕾だった/海を渡ってきた新しい風がほら/踊りながら走ってくる/自然はいつも新しい。

きのう知らなかったことを/きょう知る喜び/きのうは気づかなかったけど/きょう見えてくるものがある/日々新しくなる世界/古代史の一部がまた塗り替えられる/過去でさえ新しくなる。

きょうも新しいめぐり合いがあり/まっさらの愛が/次々に生まれ/いま初めて歌われる歌がある/いつも いつも/新しいいのちを生きよう/いま始まる新しいいま」。

当たり前の日常の中にある「新しさ」を、改めて目の前に現出させてくれるような詩である。そういう日常の、当たり前のところに置かれる「新しさ」を忘れたくない。「言葉は肉となって、わたしたちの内に現れる、わたしたちはその栄光を見る」のである。