「主の力が働いて」ルカによる福音書5章12~26節

吉田兼好著『徒然草』にこう記されている。「友とするに悪(わろ)き者七つあり。一つには高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める兵。六つには虚言する人。七つには欲深き人」。今に生きる私たちにも、「もっともな」という思いを抱かせる人柄であろう。身近に親しく一緒にいたら、矢鱈、気を使ったり、一方的な態度でこちらの気持ちを斟酌してくれなかったり、気分を害されたり、傷つけられるような人は、できるならばごめん被りたい、かの昔の知識人も、こうした本音を吐いている所に、思わず共感を覚えるものの、こういう人間関係を避けて生きることもできない、と思わされる。

この中に、三番目に「病なく身強き人」が上げられていることを、皆さんはどう思われるか。健康な人も「避けたい人」リストに入っていることに、いろいろ想像が働く。元気な人というのは、それが当たり前で、病や不調を抱える人の気持ちが分かりにくい。痛みを愚痴りたいのに不摂生を非難し、自分の健康を自慢するような人は、やはりかなわない。

こういう文章がある。「神からの賜物であるわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされています。それは、暴力や武力による脅威であったり、人間の悪意に基づく脅威であったり、排除や差別による脅威であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政による脅威であったり、貧困や疾病による脅威であります」(2022年第30回「世界病者の日」教皇メッセージ)。

カトリック教会では、毎年の2月11日「ルルドの聖母の祝日」を「世界病者の日」と定め、病気に苦しむ人々を覚え、そして医療関係者の働きが守られるように、祈念する日としている。この日は、全世界の病気で苦しんでいる方に、ふさわしい援助の手がさしのべられるように祈るとともに、病気の人自身が、苦しみの意味をよく受け止めるように、奨められている。この文章は2年前、世界中にコロナの蔓延が激しくなった時の呼びかけ、メッセージの冒頭部分であるが、今も私たちの心に、深く問いかける文言であろう。「いのちは神の大いなる賜物」、しかしその賜物は、常に、「ありとあらゆる脅威にさらされている」。これこそ、生命のもつ「秘儀、秘密」を端的に物語るものであろう。神のみ恵みは、貴い宝であり、感謝して受けるべきものであるが、同時に、恵みは必ず人への問いかけを内に含む、二重性を持っている。即ち「神がおられるのに、なぜ」という問いほど、真摯に私たちを神に向かわせるものはない。

今日の聖書個所は、2つの伝承が繋ぎ合わされたひとまとまりである。主イエスの癒しの物語、ひとつは「重い皮膚病を患っている人の癒し」、そして後半は「中風の人の癒し」である。マルコは同じ種類の伝承を、ひとつにまとめて配置して、福音書を書き進めるという方法を取っている。ルカもまた大筋では、その書き方を踏襲して、自分の福音書を記述しようとする,但し、前回と同じく、幾分かマルコの文言を簡略化し、端折りながら書き進めるという叙述方法を取りながら。今日の部分では、省略部分はかなり目につくものの、ルカ独自の挿入句は、あまり見当たらない。但し、短くしたものだから、却ってルカの視点、この伝承に対する彼の反応が、却ってよく表れているとも言えるのである。

2つの伝承、どちらも「癒しの物語」であるが、「病気」という事柄に、主イエスはどういう態度を示されたのかに注目しているといえるだろう。15節「大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」。そして17節「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」。主イエスは、集まって来る沢山の人々について、「教え」を語る。神の国についてのさまざまな物話、「たとえ話」を語られた、という。しかしそれと並んで、同時に、「病気の癒し」を積極的に行われた、とルカは告げるのである。あくまでも「教え」が主であって、「癒し」は従で、付け足しに過ぎない、というのではない。「嘘も方便」という諺があるが、たとえ嘘でも、それが救いへと至らせるものなら、それは善ではないか、などというのではない。「聞く耳ある者は聞け」、主イエスは聞く人にみ言葉への理解を求めたが、人々は現世利益、奇跡ばかりを期待した、そして奇跡に消極的なイエスに失望した、とルカは言いたいのではない。主イエスの神の国の「教え」、と「癒し」は、どちらが上でどちらが下というのではない。不可分に結びついている、言葉なしの癒しはないし、癒しと無関係な言葉もまたない、言葉と癒しとは、ひとつに結びついている、とこの福音書の著者は語っているのである。

17節の語られる言葉「主の力が働いて」という文言は、この個所での数少ないルカの挿入句であり、この個所で語りたい、著者の強調点なのである。この短い文言を「主の力に突き動かされて」と少し強い言葉で訳してもよいように思われる。主イエスのみわざ、それが人々に語られるたとえ話であれ、病気で悩む人に注がれる癒しのわざであれ、それは取ってつけたような「嘘も方便」等というものではない、どれも「主なる神の力が働いて、その力に押し出され、突き動かされて」表わされた出来事なのである。そしてそれは、この主イエスの宣教の行きついた所、十字架にかけられ、血を流し、息絶えるという痛ましい出来事もまた、「主なる神の力の働き」なのであると。この時の主イエスの癒しのみわざは、十字架に真っすぐにつながっている。

この2つの癒しの物語は、それぞれ重い病気に悩む病人が登場し、その両者は、表面上は全く逆の立場に置かれているように見える。「重い皮膚病に悩む人」は、律法の規定によって、家族や知人から引きはがされて、ひとり孤独に、町はずれの汚れた者の地に行って、住まなければならない。いわゆる交わりから断絶させられるのである。いつ治るともわからない病を負って、ひとり置かれていたのである。(もっとも、身内の者は何もしなかった訳ではあるまい。手渡しできないにしても、食べ物や生きるに必要な何某かは、届けたことであろう)。方や、「中風を患っている人」の場合は、身内なのか友人なのかは記されていないので不明だが、床に乗せて運んできてくれるような善意の何者かは、いたようである。やはり心配し同情してくれる誰かが側にいる、ということは、何と喜ばしい、力強いことであろう。この両者の「境遇」には、天と地との開きがある。確かにそうかもしれない。病に苦しむ中、誰かが近くにいてくれることは何と慰めであるか

そして、この数年のウイルス禍は、このような境遇の違い、いわば「従来の区分け」を壊してしまう出来事でもあると言えるのではないか。たとえ最も身近な家族であろうとも、すぐそばに付き添うことはできない。痛む身体をさすったり、手を握ったり、声をかけたりすることも禁じられたのである。そして万が一のこととなれば、看取りもかなわず、最後のお別れすらもできず、ただ後は、まったく知らない他人の手に委ねるしかない。

冒頭に紹介した「病者の日」の文章はこう続く「20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。『痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこのまったき孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる』(エマニュエル・レヴィナス「苦しみの倫理」)。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安がつのり、次々と疑問がわいてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします」。病に悩むこと、傷むことの答えを求めるが、その答えは容易に見つからないのである。表面的にはいろいろ言える。「長年の不摂生」「運が悪い」「もう少し用心して居れば」、このような病者の問いは、病気の人だけの問題なのだろうか。そしてこの問いにまっすぐ答えてくれるのは、そもそも医師や看護師、家族や友人、そういう周りの人々の手なのだろうか。

ルカの語る癒しの物語は、全く境遇の異なる所に置かれているように見える二人の病人が、結局、病という中にあっては、同じところに立たざるを得ない、という厳粛な事実を告げているように見える。自分が身に負っている「病」を、自分自身でどうにかできるわけではない。かといって誰かがどうにかしてくれるわけでもない。もちろん、食事を運んでくれる人はいるかもしれない。床に乗せて運んでくれる助力者、助け手はあるかもしれない。声をかけて励ましてくれる人が居るだろう、祈ってくれる近しい友がいることは、何と深い慰めだろう。この国ならば、病院があり優れた医師、看護者がそこにいる。それで「病気」の問題はすべて克服されるのか。

「主なる神の力が働いて」とは、主イエスのもとに私たちを連れて行く、そういう力なのである。誰かが誘ってくれて、一緒に行こうと言ってくれて、主イエスのもとに行くことができた、という人があるだろう。伝道集会のポスターを見たのでふと、気が付いたら目の前に教会があった、行く気はあまりなかったが、ふと声をかけられた、いろいろ教会を訪れたきっかけはあるだろうが、根本に、主イエスのもとにやって来ることなしに、誰も、何も始まらないのである。そしてそこで「主の力が働いて」、主イエスはわたしと出会ってくださる。そこに病に秘められた神の神秘、大いなる働きがあるのではないか。