「人ひとりいない」イザヤ書59章12~20節

人間には皆、人であれ物であれ、何らかの「愛するもの」がある。現在、栃木県佐野市の郷土博物館で、「正造が愛したもの」と名付けられた企画展が開催されている。「正造」とは、かの「足尾鉱毒事件」のために奔走し、天皇に直訴すらも試みた田中正造その人である。佐野市は彼の故郷であり、1841年12月15日に誕生した彼は、来年には、生誕180年を迎える。

足尾銅山の鉱毒被害を受けて、苦しむ谷中村の人々と共に戦った、正造の晩年の写真は、良く知られているように、ぼろぼろの身なり、伸び放題の髪、ひどく険しい表情をしている。この頃の自分の姿を、彼は「辛酸亦入佳境(しんさんまたかきょうにいる)」と呼んでいる。この自己評は、彼一流の自虐的ユーモアかもしれない。彼の生活は、今で言う所の「ミニマム生活」、極限の「断捨離」とも呼びうるもので、無一物といっても過言ではなかった。しかし、いつでもどこでも持ち歩き、死の床の枕元にも置かれていた「愛したもの」があった。「帝国憲法(明治憲法)」と「聖書」である。

「聖書」と正造の出会いのきっかけは、実に興味惹かれるものがある。1902年(明治35年)、銅山の鉱害を訴えて、陳情しようとする農民と警察隊が衝突し、流血騒ぎとなった川俣事件が起きる。その裁判の傍聴中に、あくびをしたことで、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、正造もまた裁判にかけられ、重禁固40日の判決を受け、服役させられたのである。これは鉱毒問題について国会で大演説し、激しく政府の責任を問う田中正造議員への、嫌がらせや見せしめだったのだろう。このときの不条理な獄中生活の中で、聖書を読み、影響を受けたとされている。この後の正造の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなったという。

聖書の言葉も、彼のかけがえのない「愛するもの」のひとつだったのだろう。他のものではなく、いわばこの無信仰の(洗礼こそ受けなかった)聖人の、死の床の枕頭に置かれた「聖書」は、実に、この人にふさわしい「愛するもの」であろう。ところがそれ以外に、彼がいつでもどこでも持ち歩き、最期の枕辺にも置かれていたものがある。何だと思われるか。それは三つの小石である。今では県文化財に指定され、博物館で見ることができるが、この三つのほかにも収集した約200個の小石がある。波乱に満ちた人生において、小石集めが趣味だった。なぜ好きだったのか。

苦しむ農民と共に、否、先頭に立って突き進み、舌鋒火の如く、激しく批判の言葉を口にする、彼の「外面」の世界と、海の波と砂に磨かれた小さな石ころを拾い、これを愛でて、いつも懐に携えるという「内面」の世界の対比、落差がどこでどうつながっているのか、興味惹かれるところであろう。なぜ彼は小石を拾い、集めたのか。その小石はどこにでも落ちているような、小さな石ころに過ぎない。それをどうして大切な宝物のように、拾い集めたのか。

待降節第2主日を迎えた。二本目の蝋燭は、「平和」を意味すると言われる。今日はイザヤ書の預言のみ言葉から話をする。平和を思う聖日に、このみ言葉を読むとは、何となくそぐわないようにも思われる。13節「主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/

虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」。「偽り」という言葉が繰り返される。「偽」という漢字は、「人の為」と書く。いい意味のようにも受け取れる。「為」とは、人間の「手」と動物の「象」が組み合わされてできた文字。人間が象を手なずける様子を表している。 そこに人偏がつくと、人間が作為的に手を加え、本来の性質や姿を無理やり矯め直すと いう意味を表す。要するに人の作為で姿を変える、正体を隠して上辺を 取り繕うという意味から「いつわる」となったとされている。人のため、神のためといいながら、正体を隠して上辺を取り繕い、神までも操ろうとするという意味を表す字である。

さらに「つぶやく」、言わなくてもいいようなこと、余計なことをしゃべる、ということである。確かに、「文句」や「愚痴」というものは、それを口にしたところで、何も状況や事態を変えはしない。ただ他人がそれを聞いて、いやな気分にさせられるくらいのものである。そしてそれを語る当人も、それで気持ちが晴れ、元気が出る、というものでもない。それでいて、分かっていても、つい口にしてしまう所が、人間というものなのだろう。12節に「わたしたちは自分の咎を知っている」という言葉が見える。イザヤらしい鋭い人間観察からの洞察である。「咎」とは、人から責められるべき言動、非難されるようなふるまい、発言を意味する。

しかし聖書は、人間の道徳的倫理的な事柄をまず問題にするのではない。他人様に顔向けできない、他人から後ろ指をさされることが、一番重い問題なのではない。まず、神の前にどうか、が問われる。神のみ前に、恥じることなく出ることができるなら、誰か他人からあしざまに言われても、どんなに悪い評判を得ても、決して絶望ではない。神があるがままの私を、良しとしてくださるなら、耐えること、不条理に耐えることできる。神が私の味方なのだから。

しかし、神のみ前に耐えることができないのなら、その時は、私の破滅なのである。かのアダムとエバが、禁断の木の実を食べて、その後、神に顔向けできないとばかり、神を恐れて、園の木の間に身を隠した。それこそが「咎」なのである。もしあの時、罪を背負いつつも、神の顔を避けるのではなく、神のみ前にぬかずき、罪を悔いるなら、人間の運命は随分と違ったものになったかもしれない。すべてお見通しの、隠れることが出来ない神の顔を避けるなら、そこには赦しの黎明はない。

12節に「わたしたち自身の罪が不利な証言をする」とある。ばれなければ、何事もなかったように、知らぬ存ぜぬと、口を拭っていられる、というものではない。罪は隠して通せるものではなくて、大胆に雄弁に、神の前に告発をする、というのである。罪はまるで裁判の時の検察の弁論のように、被告の罪状をことごとくつぶさに告発をする。神の前に罪自らが証言する、というのである。だから人は、咎の中で、神の顔を避けるのである。

16節「主は人ひとりいないのを見」たとある。もっとも悲惨なのは、誰もいない、一人もいないことだという。善人がいない、正しい者がいない、というのではない。人間が、たったひとりで放っておかれている、捨てられている、誰も彼の弁護をしようとせず、傍らに寄り添うこともなく、神の前に立つこともできないで、ただ逃げ隠れし、自分の罪を覆い隠すことばかりに汲々としている人間が、どうにもできずに堂々巡りしている有様を見た、というのである。側にいて、執り成す者が誰もいない、告発する者はあっても、罪を論う者はあっても、それをかばい、あやまり、なだめるものが、誰もいない。

かつて幼い時、過ちを犯した時に、この私をかばい、私に代わってあやまり、怒りをなだめてくれた人がいなかったか。その人のおかげで、道を踏み外さずに済んだと言うことはなかったか。20節「主は贖うものとして、シオンに来られる」、神は、あなたを執り成す者として、かばい、あやまり、怒りをなだめる方として、この世に来られる、という。

無一物の人としてこの世に生き、無一物でこの世を去って行った田中正造が、なぜ石を拾い集め、最期の枕もとまでも、それを携えていたのか。亡くなる1913年、宇都宮で記した日記に、その答えが記されている。美しい小石を、(ただの値打ちのない)小石とばかり人が蹴り飛ばすのは耐えられないし、自然によって磨かれたのを見るのは楽しい、と書いている。「只(ただ)人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ」。困っている人に手を差し伸べずにいられない正造の精神が垣間見える言葉ではなかろうか。直訴を試みて以降、闘いから支援者が離れていく中、最期まで被害民に寄り添った義人の、心の底が見通せるような言葉であるだろう。小石を見つめるその目は、何と慈しみに満ちていたことだろうか。

キリストの眼差しも、またそのようだったろう。赤ん坊の瞳は、こちらが引き込まれるくらいに澄んで、美しく輝く。そのような目が私たちひとり一人に、注がれている。「人が蹴り飛ばすのは耐えらない」そのような心を、私もまた自分自身の心としたい。