「今は悪い時代」エフェソの信徒への手紙5章11~20節

「鶴は千年、亀は万年」と言われる。長寿で縁起のよい生き物だと言う。こんな小話がある「亀は万年と昔の人がいうけど、ありゃウソだね。この前買った亀がゆうべ死んじゃったよ。いや、きのうが1万年目だったんだろ」。実際、亀が1万年も長生きするものなのか、生物学者に尋ねた人がいる。するとその生物学者は言う「そんなに長い間、亀を観察し続けた学者はいません」。それでも、確実なところでは1766年から152年間にわたるゾウガメの飼育記録があり、死亡時の推定年齢は180歳といわれる。記録は不確実だが、255歳のゾウガメの話もある。

前回オリンピック開催中のこと、こういう新聞コラムがあった。一瞬にかける選手たちにとって、9秒半から10秒という時間は意外に長いのかもしれない。100メートルを走る間に、信じられないくらい多くのことを考えると、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が著書で述べている。いい走り出しの選手がいれば、「クソッ! どうやったら、そんなスタートが切れるっていうんだ?」と悔しがる。加速でもたつくと、過去のレースの教訓を思い出すよう自分に言い聞かせる。「パニックになるな」とも。

皆さんはどうか。ごく短い一瞬が、長い長い時間に感じられたことはないだろうか。外界がスローモーションのようにゆっくり動き、どうするべきかいろいろ必死に考えをめぐらしているような時を持ったことはないか。つくづく時と言うものは、長さや量だけでなく、質が問題なのだと思わされる。

今日は、エフェソの信徒への手紙からお話をする。すでに何回か話しているが、新約の文書中、最も後期に記されている書物である。教会にいる人々の心が弛緩して、信仰が揺らいでいるような時代状況の中、語られた手紙である。心の弛緩、信仰の揺らぎ、と言ったが、もっと的確な言葉を用いれば「無力感、脱力感」と言えるだろう。がんばったところで何になるのか、誠実に生きたところでどうなるのか。信仰の先達、頼りにしていた教会の先輩方も、すでにひとりふたりといなくなっていった。この先、教会はどうなるのだろう。未来への希望が見えないではないか、という状況を前にしているのである。

今日の個所での鍵語は「光」である。「光の子として歩みなさい」という有名な聖句が語られる。神の光によってすべてが「明るみに出される」とか「明らかにされる」という表現が見られる。この「明るみ」という言葉は直訳すれば「責める・糾弾」という強い意味の用語である。神の光は、悪や闇や不正を暴き出し、鋭く糾弾し、刺し貫く、というのである。

立秋もとうに過ぎたが、相変わらずの残暑である。先日も故郷では40度近い酷暑が伝えられた。外を歩けば、鋭い太陽の光が容赦なく肌を指す。この国でもそうなのだから、砂漠の多い乾燥地帯である地中海世界での、日の光の強さはいかばかりであろう。「光」や「明るさ」が「糾弾・刺し貫く・責める」というニュアンスになることに、成程と頷かされる。光はありがたいものだが、常に人間に優しく、人間の都合の良い方ばかりには働かない。時に干ばつや日照りをも生じさせる。飢饉の原因ともなる。神の言葉もそうである。光として、私たちの人生の問題を暴き出し、その問題を刺し貫く。そして悔い改め、方向転換へと導くのである。但し14節のみ言葉が非常に興味深い。「光に貫かれた者はみな、ひかりとなる」。

今、残暑にあえぐ私たちも、あとひと月もすれば、秋のさわやかな風に再び巡り合う。空も澄み、見事な中秋の名月を見るであろう。あの美しい月の光は、自分が出す光ではなく、太陽の光を反射して輝くのである。ウサギが餅をついているように見える影は、クレータを初めとする表面の凹凸によるのである。実に月の表面は鏡のようではなく凸凹である。それでも太陽の強い光に照らされて、月もまた輝くのである。「ものはみな、光となる」。月ばかりではなく、神の光、神の言葉を知る者は、誰ひとり残らず、その光を映し出すようになる。神の光をすべて自分の闇の中によって隠してしまい、暗闇の中に生きる人は、本来いないのである。すでにあなたは神の光に映し出されている。ところが人間は、朝がやって来て、日が昇って寝床を照らしても、なかなか起きられないことがある。えいやっと一思いに飛び起きればいいのだが、ややもすると寝床でぐたぐたと空しい時間をつぶすことになる。

今日の個所には、初代教会で歌われた「讃美歌」か、あるいは「祈りの言葉」が記されている。14節「引用」。眠っている者よ、起きよ、死人の中から立ち上がれ、キリストの光が照っている」。無気力に眠り込んで死んだ者のようになっている、当時のキリスト者への呼びかけであるが、今もこのような言葉が、主イエスから呼びかけられているのではないか。また大いなる眠りについた後も、私たちひとり一人は、いつかこの呼びかけの言葉を聞くことになるだろう。「起きなさい!立ち上がりなさい」。かつては母親の声だったろうが、今度聞くのは、「神の声」である。

今日の聖書個所では、「光」から始まって、「時」について語られていく。16節「時をよく用いなさい」。創世記の天地創造の物語を読むと、この世界で最初に造られたものが、「光」であったと語られる。光が造られたことによって、昼と夜が生まれた。そして夕べがあり朝となって、一日ができる。つまり、光の創造は、同時に「時・時間」の創造であったのである。神は光を造られることで、時間をも創造されたのである。だから神から光を与えられたことは、時間を賜物として与えられたと言うことである。私たちへの神の最大の贈り物は、時間を与えられたことなのである。そこで16節「時をよく用いなさい」。「よく用いる」という言葉は直訳すると「購う、買い取る」という意味である。「神からただで与えられた時間を、金を払ってでも買い取りなさい」という勧めである。「ただ」より高いものはないと言われる。世の中では「ただ」ということに、大きなからくりがある。「ただ」によって人間は騙されるのである。ただによって、人は高価なものを浪費するのである。

しかし神の「ただ」は、み子イエスの十字架の救いである。ひとり子を十字架に付けると言う最も大きな代価が神から支払われて、私たちに赦しが与えられた。それが神の与えた「命の時」の恵みである。「神からただで与えられた時間を、金を払ってでも買い取りなさい、痛みをはらって、自分のものにしなさい」そのような心こそが信仰の生活であろう。

ヘルマン・ホイヴェルス神父の有名な祈りの言葉がある。「最上のわざ」と題されている。

「この世の最上のわざは何?/楽しい心で年をとり、/働きたいけれども休み、/しゃべりたいけれども黙り、/失望しそうなときに希望し、/従順に、平静に、おのれの十字架を担う――。/(中略)老いの重荷は神の賜物。/古びた心に、これで最後の磨きをかける。/まことのふるさとへ行くために――。/おのれをこの世に繋ぐくさりを少しずつ外していくのは、/

真(まこと)にえらい仕事――。/神は最後に/いちばんよい仕事を残してくださる。/それは祈りだ――。/手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。/愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために――。/すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。/

『来れ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と」。