「仮住まいの身」ペトロの手紙一2章11~25節

昨年の今頃に、北海道新聞にこういうコラムが記されていた。阪神大震災で被災しながら、神戸市で医療活動を続けた精神科医の中井久夫さんは、その経験や教訓を「災害がほんとうに襲った時」に記した。修羅場で有効な仕事をした人は、自分で最良と思う行動を自己の責任で行い、指示を待った者は何もできなかったそうだ。役所の中でも規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者の暗闘があり、「災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなる」と結論づけている。東京・台東区で、台風19号の自主避難所に避難しようとした路上生活者3人を、区職員が断り、区長が謝罪に追い込まれた。人命よりも、区民かどうかを優先するとは、石頭、しゃくし定規にもほどがあろう。中井さんは、「ホームレスを取り締まれ」という声に、神戸市が「そういう人が少しはおられるのが街というものではないでしょうか」と答えたことも紹介している。行政の柔軟な対応と、全国から集まったボランティアが被災者を支えたと言えよう。

「災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなる」、災害に限らず、切羽詰まった状況は、人間の素顔や本性を明らかにする。ドラマ作家の早坂暁氏は、ドラマには必ず「切羽詰まった要素が必要」であると語り、人の性格も、気性も、例えばその人が明るい人か、暗い人かも、本当に切羽詰まらなければ、表に現れてこないという。そして「切羽詰まった状況」の最たるものは、「死に直面する体験」なのだという。氏自身、病気で入院を命じられ、医師から、かなり深刻な状態と告げられた。医師から「何でも食べたいものを食べても良い」と言われたので、病室が個室だったのをこれ幸い、ホットプレートを持ち込んで、じゅうじゅう高級肉を焼いてステーキなぞを食べていた。そうしている内に、つくづく思ったそうである。「これまで自分のことを暗い性格だと考えてきたが、病気の宣告を聞いても、それほど動揺せず、食欲も落ちない。実は自分は明るい性格なのではないか」。

今日の聖書の個所は、教会の歴史において、また今日でも、大きな問いを投げかけて来るテキストである。また、今日は礼拝後、修養会を持ち、「協会共同訳聖書」について学ぶが、翻訳についても、問題視されている個所でもある。例えば12節「訪れの日」と訳されている言葉がある。この言葉が何を指しているか、すぐにピンと来る人がどれほどあるだろうか。一見、直訳に見えるが、そうでもない。「協会共同訳」でも同じように「訪れの日」と訳しているのだが、翻訳上の難解な用語には、欄外の註でさらに意味の付加がなされている。おまけ付きの翻訳である。おまけの方が、価値があったりする?。直訳「査察」。この言葉、例えば「税務署の査察」のように用いられる言葉である。税金を誤魔化している疑いのある事業所などに、突然、税務官が乗り込んできて、帳簿、証票をつぶさに調べ上げて、脱税を摘発するときの用語である。新約の時代にこうした専門用語がすでに用いられているというのは、いつの時代でも人間の営みに変わりがないということか。税金の「ごまかし」はいつの時代でも同じである。

もちろん、教会が税金を誤魔化して、不正に流用しているのが摘発される、という現実的な意味ではない。「査察」の意味するところは、係官が前触れなく、思いもよらなかった時に、突然やって来て、ことの是非、真実と虚偽が明らかにされる、ということである。もちろん終末が意識されていることは間違いないが、終わりの日に主イエスが突然にやって来られる、ということばかりを言おうとしているのではない。先ほどの「災害の時」、つまり、「まさかの時」には、まさしく人間性が露わにされる、のである。災害でも禍でも、窮地に陥った時に、初めて人間は本当のもの、真実のものに目を向けるのである。そしてそこで「立派な行い」をしているかどうか、つまり「真実に生きているかどうか」があぶり出されるという訳である。

それでは「立派な行い」「真実の生き方」とは何を指すのだろうか。13節以下のパラグラフは、非常に教会の間で議論を呼び覚まして来たみ言葉が記されている。「すべて人間の立てた制度に従いなさい、云々」と命じられる。この個所ともう一つローマ書13章にほとんど同じような意味合いの文言が記されている。新約聖書の時代、教会の抱える一番の問題は、「迫害」であった。そして大迫害で名を知られるネロ皇帝の時代に、60年代には、ローマ帝国がキリスト者を激しく迫害するようになった。そういう社会状況の下、教会はどういう態度をもって歩んで行くのかは、やはり喫緊の愁眉の問題であった。

そういう背景から、この個所のような、あるいはパウロのような主張、即ち、お上に対して、表立っての反抗や抵抗は控えよう、従順な態度で、という穏健な主張が唱えられたことは、当然である。ところが、新約の文書は、どれも迫害を背景に、周囲の無理解への困難をかこちつつ日々歩む教会、そしてそこに集うキリスト者たちによって記されていったのだが、その中で、直接、お上への従順、それもいささか律法的な命令を説く文章は、この二か所だけである。これをどう考えるか。この二か所をもって、初代教会のキリスト者の創意だったとみなすわけにはいかないだろう。おそらくは、教会は、置かれたところ、抱えている課題、さまざまな苦労や圧力の中でも、それぞれの「信仰的決断」や「折り合いの付け方」あるいは「妥協」や、時には「対決」をしながら、歩み続けたのである。

しかし一つだけ、すべての教会が、困難を抱えつつも、例外なく目を向けていた事柄がある。あまりに当たり前のことなのであるが。それが13節の冒頭に記されている。「主のために」。協会共同訳では「主のゆえに」、問題は、小さな前置詞ひとつ「ディア」をどう訳すかなのである。もちろん、「ために」「ゆえに」、どちらにも訳せる用語である。ところが翻訳は、こういうささやかな言葉をどう訳すかで、その価値が決まると言っても過言ではない。「ために」と訳すと、誰かに対してつくす、とか利益をもたらすとか、とか一生懸命にがんばる、という「努力・精進」的意味合いになる。「ゆえに」と訳すと「動機」が問題となる。自分が偉くなりたいとか、お金を儲けたい、というのではない。いわば「そうせざるを得ない」「やむにやまれず」という心が強調される。

そしてこの「ディア」の向かう所は、主イエスなのである。「ために」と訳す時に、私たちは問われる「一体、私たちは主のために何ができると言うのだろうか」と。神は、キリストは、人間によって欠けを満たしてもらうようなお方ではない。私たちは、神のために、キリストのために、本来、何もできない。ただ感謝して、小さくなって、恵みをいただく他ないのである。「ために」という時には、自分への高ぶりがある、自分の能力への過信がある。誰かのために、と言いながら、人は、自分自身を義とするのである。

そうではない、「主イエスのゆえに」、共に食卓で飲み食いし、み言葉を語ってくださった主、あの十字架に釘付けられ、血を流され、わたしのために祈り、赦しを告げてくださった主イエスがおられるから、今、私は生かされているのであり、この拙い人生を、何とか主イエスを見上げながら、み言葉を生きようとしているのである。その「主イエスのゆえに」、私たちは人間的な制度に従う、そして従わない。服従する、しかし服従しない。すべては「主イエスのゆえに」なのである。