祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書16章19~31節

今日の個所は、主イエスの譬え話のひとつ「金持ちとラザロ」の話である。ラザロという人物は、福音書中に何度か登場する。エルレレム近郊のベタニアに住んでいたマリア、マルタ姉妹の兄弟だと言われている。ヨハネ福音書では、ラザロは重い病を持ち、その故に亡くなったが、主イエスによって甦らされたと伝えられている。

この兄弟姉妹たちと、主イエスは家族のように、家族以上に親しくふれあったことは、まず間違いはない。おそらくはこの人々が暮らしていた家が、主イエスの宣教、活動の拠点だったのだろう。教会の前身である。否、もう教会であると言っても差し支えない。主イエスがこのラザロを深く愛し、心にかけていたことは否定できない。今日のたとえ話では配役、登場人物のひとりとされている。大金持ちの門前で、そこに横たわって暮らす病気のホームレスとして描かれる。

もう一人の登場人物、敢えて言えば主役であるが、名前は記されていないが「大金持ち」である。いつも紫の衣や柔らかい麻布を来て、毎日遊び暮らしていた。どうも彼の家には子どもが5人いたようである。ある聖書学者は、この登場人物の名前は語られないが、この話を聞いた人々は、皆、この金持ちが誰なのか、見当がついただろう、という。大金持ちで、豪勢な衣食住を営み、贅沢に遊び暮らし、5人の子だくさんで、しかも、門前にいるホームレスの病人に対して、一顧だにしない人物とは誰か。民衆はすぐに「大祭司カイアファ」のことであると了解したことだろうと主張する。ユダヤのエルサレム神殿の大祭司ならばさもありなん。実際、彼には五人の子どもがいたようだ。

さて、この登場人物の二人、まるきり対照的な人物として描かれる。方やユダヤの貴族で、大祭司の家柄、それは世襲でその地位を代々子孫が引き継いでいく。所謂、食べる苦労も額に汗して働く苦労も、無縁な人生である。放っておいてもユダヤの勝ち組である。他方、ラザロはどうか、保護者、庇護者を欠き、捨てられ、物乞いをしてしか生きる術を持たない病人である。

この世界には、確かにこのような不公平、不平等がある。どこに誕生したか、どんな親の元に生まれたか、どう言う環境の下に生育したか。さらに健康か、病弱か。私たちの人間の世は、不合理に満ちている。そしてそれらは、子ども自身ではいかんともしがたい、決して自己責任という言葉によって、解消されてはならない事柄である。子どもは生きるそのスタートラインを、自分では選ぶことはできないのである。

日本の子どもたちは、身体的には健康だが、精神的な幸福度は低い――。こんなデータを、ユニセフ(国連児童基金)が、9月3日に公表した。先進38カ国を比べた調査で、死亡率などが低い一方、今の生活への満足度などが低く、「子どもの幸福度」の総合順位は20位だった。特に、生活の満足度が高いと答えた割合や、自殺率の数値を比較した「精神的幸福度」が低いことが気になる(ワースト2)、また「読解力・数学分野の学力」や「すぐに友達ができる」と答えた子どもの割合を比較する「スキル」の評価は27位であった。

大祭司とラザロという二人の対照的な人生、そして運命をどう受け止めたらよいのか。主イエスを含め、古代人は、そのような人生の不平等、不公平やら、身分の上下は、運命的なもの、神のみこころの領分として受け取っていた。95%以上の人間たちは、皆同じような生活レベルであり、ほんの一握りの上級民が、一般の民衆とは隔絶した生活を送っていたのである。但し、観念レベルにおいては、ただ仕方がない、どうしようもない、諦めよう、と考えていた訳ではない。この世の不平等、不公平は、死んでからあの世で帳尻が合うように、組み立てられている。この世で良い目を見た人は、あの世で苦労をするし、この世で悪い目を見た者は、あの世で良い目を見る。そう言う観念で、この世の憂さ、やりきれなさに、折り合いをつけていたのである。

この世とあの世の観念は、古代の人すべてに影響を与えていたから、金持ちもやはりあの世のことを、思いめぐらしてはいたのである。あの世で苦しい目を見ないためには、どうしたら良いか。「喜捨、施し、布施、寄付」等、自分の財産の一部を還元することで、そうすれば、あの世の幸が保証されると期待したのである。もっとも、気前よく施せば、その金持ちの名は高められる。

主イエスもまたそのような古代人の観念をベースに、たとえ話を語られている。しかし、この大祭司は、戯画化されているにしても、何とも情けない。公務で、民衆の平安を祈り、国家の安寧を祈願し、民を代表して神に向かって、感謝の供え物を捧げ、うやうやしく祭儀を行うのである。その民の長たるものが、自分の屋敷の門前にいる傷ついた病人、身寄りのないホームレスに、全く気を留めていないのである。敢えて目を背け無視していると言うよりは、端から目に入らないのである。ラザロがいることも知らない、問題にしないのである。「何もしなかった罪、知らないという罪」という厳しい言葉を語った人があるが、確かにそうだろう。

死後、炎の中で苦しみもだえる金持ちは、苦しみの中で、初めてラザロの姿を認めるのである。そして自分が知らなかったこと、何もしなかったことに臍を噛む。人間とはそういうものかもしれない。自分自身で頭をぶつけ、痛い目を見て、血を流し、ようやく気付き、自分に目を向けるものなのかもしれない。いやそれでも、まだ誤魔化したり、責任転嫁や人のせいにしながらであるが、それでも事柄と向き合うのである。

金持ちは願う、「ラザロに遣わして、指先を水に浸し、舌を冷やさせてください」。ところがアブラハムはこう語る。「わたしたちとお前の間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」。人と人との間に、互いを隔てる、越えられない大きな溝がある、現代もこうした人と人との間の事柄への洞察は、なお真実ではないのか。日本の子ども達が、「精神的幸福度」が極端に低いとは、この洞察をこころに実感しているからではないか。

主イエスは死者の中から蘇られた方である。即ち、生と死、金持ちとラザロの間を行き来することのできる、さらに橋渡しをすることのできるお方である。この主イエスのみ言葉の内に、結び合わせられることがなければ、人と人との真の繋がりは、生まれないであろう。