「嵐の中から」ヨブ記38章1~18節

最近は山登りがブームとなっているが、高い山の山頂から日の出を見たことがあるだろうか。日がまだ上らず、光のない状態では、上から眺める下界の景色は単調で、ただ黒い壁が一面に拡がっているようにしか見えない。次第に夜明けが近づき、黎明を迎えると、いままでのっぺりしていた風景が、最初はおぼろに、次第に凹凸を持って立体的に見えて来る。そして太陽が昇るやいなや、くっきりとした世界の輪郭が目に飛び込んでくる。感動すら覚える一瞬である。

今日の聖書の一節に、そんな一瞬の光景を切り取ったようなみ言葉が記されている。14節「大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる」。新共同訳は口語訳に比べていささか味けない翻訳になっている。口語訳「地は印せられた土のように変り、衣のようにいろどられる」。はるか聖書の時代にも、高い山の上で太陽が上るのを待っていた人が、夜明けとともに曖昧模糊としていた周囲の風景が「印せられた土」、まだ柔らかな土器に模様を付けるために、型押しをするように、明るくなるにつれて立体的に視界に立ち上がって来る。やがて光が射すと世界は一瞬の内に「衣のように彩られる」。それを見て、美しさに胸打たれた、ということである。人間の感性は変わる所がない。

冒頭に今日の聖書個所が長々と引用され、その後、物語が始められる小説がある。代表作『大地』と同じ作者の手によって、1959年5月に出版された。邦訳されたのは、ほぼ半世紀後の2007年である。邦題は『神の火を制御せよ』。この著者は、1957年にノーベル文学賞を受賞した作家、宣教師の子どもとして生まれ、幼い時を中国で過ごした女性作家パール・バックである。この邦題を見れば、この本が何について書かれているのか、大体予想はつくだろう。「原爆を作った人々」という副題が付けられ、アメリカの原爆開発計画、「マンハッタン計画」の裏側を、もちろん架空の物語、「小説」として描いているという筋書きである。そして、この本は1960年代の欧米における「反核運動」の原動力の一つになったとされている。なぜこの国で。この書物の翻訳が半世紀もなされなかったのか、思いめぐらすのも意味あることだろう。

但し、この小説の原題は、『神の火を制御せよ』という即物的なものではなく、「朝に命令せよ(“Command the Morning”)」であり、今日の個所の12節のみ言葉をそのまま用いているのである。「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか」。創世記の冒頭に、神は天地の創造を、まず「光」の創造をもって始められる。「神は言われた『光あれ』、すると光があった。神はその光を見て、良しとされた」という厳かな文言を、ヨブ記の作者も思い起こして、この個所を記したのであろう。いささか詩的に、ロマンティックに「地は印せられたようにかわり、衣のように彩られる」という文言までも添えて。

パール・バックはこの書で、核開発にまつわる出来事を、開発に当たった科学者たちの視点から描き出そうとしているが、作家が描く主人公たちは、結婚生活に問題を抱えていたり、家族の愛憎問題に心悩ませていて、それが彼らの心の中では、彼らが携わるあまりにも重大な研究と、まったく同等の重さを占めていることが語られる。あえて日常生活、悲喜こもごもの人間ドラマの内に、人類の命運を分けた「マンハッタン計画」が進展して行くことを描いた。それによって、原爆を使うことが非人道的だとはわかりきっていても、様々なしがらみの中で、踏みとどまることができず、現実に使われたという事実が赤裸々に記される。人間という感情に弱い生き物が、「核」という制御できない力、「朝に命令する」力を手にした時に、どうなってしまうのか、結局、人類の運命という、これ以上なかろうという重大な問題が、その時のご都合に左右され、立場だ名誉だ、誰の優位だと日常に流されていくことを今、あらためて思い起こさせる内容である。

さて、この聖日から教会の暦は、「聖霊降臨節」から「降誕前節」に移行する。つまりそろそろクリスマスを迎える準備を始めましょうね、という時が始まるのである。月日の経つのは早いものだ。主日礼拝で読まれる聖書の個所も、それにふさわしく、しばらくの間「旧約」が読まれることになる。主イエス・キリストが誕生される前、聖書の民ユダヤの人々は、長く久しくは「救い主」の到来を待ち望んだのである。預言者がその到来を予告し、民はその預言に希望を見いだし、艱難辛苦に耐えたのである。その長きにわたる悩みの時を思い起すべく、旧約のみ言葉が語られるのである。

人の苦しみ、苦難を語る聖書の書物と言えば、ヨブ記を置いて右に出るものはないであろう。それもいわれなき苦しみ、不条理の苦難を味わったのが、この書物の主人公たるヨブである。現在の形のヨブ記が記されるもっと前の古い時代から、人々の間で、義人ヨブの話は、口にされていたと思われる。故無く苦難を受ける義人が、耐えがたい苦しみを忍耐するその末に、幸を得るという、単純な説話を基に、旧約のある知者が、このような議論の堂々巡りのような長大な書物に展開させたのである。

その結末部分が、今日の個所から始まる一連の「主なる神の言葉」と題される下りである。普通、読者は、書物の最後の結末には、何らかの「解決」が与えられている、と考えるものだ。確かに、ヨブの幸福は、最後には再び取り戻されているように見える。失った財産や家族、子どもたちは再び与えられる。しかし肝心のヨブが友人たちと激しく議論した「神義論」には、答えは出されないのである。「どうして人は苦しむのか、不条理の苦難があるのか、神がいるならなぜこの世界に苦しみがあるのか」という問題について、何ら結論めいたことは語られずに、物語は結末を迎えるのである。

今日の個所でも、ヨブに対する神の言葉は、有無を言わせず力ずくで黙らせるような、まるで遠山の金さんのようである。「この桜吹雪が目にはいらねえか」。2節「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」。「すべてお見通しだ」こう言われては身もふたもない。ニュートンがその晩年に語ったとされる言葉がある「私は海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」。

確かに科学的真理の発見というものは、ひとつの無知をもう一段階上の無知に引き上げる行為でしかない、というものかもしれない。しかし人間は、そういう真理の探究を止めないだろうし、踏みとどまり、諦めることはないであろう。即ち「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか」と神は問うのだが、これに人間はどう応答するだろうか。おそらくこの問いに人間はこう答えたのである。「いつか必ず朝に命令する力を得る、曙に指示する権能をわれらもまた手にするだろう」。「核」という太陽を自分自身の手で創り出し、その力を実際に用いているのである。核兵器という形であれ、原発という形であれ、自分たちが創り出した太陽に対して「朝に命令」しているのである。今も、ことあらば、いつでも何度でも用いることができるとうそぶいているのである。

パール・バックのかの小説に、次のような一節が語られている。「研究者が課題の実験中に死亡する事故が起こる。一方で、『ゼロ』と呼ばれる地点での起爆実験が実行される。巨大なきのこ雲が立ち上る。『新しい神の世界だ』バート(開発者のひとり)は(新しい巨大な力を手にしたということで感動し)すすり上げた。『新しい時代には違いないが、果たしてそこには神が住む世界だろうか』スティーブは暗い気持ちで反問した」。

人間の用いる「朝に命令する力」は、神のように、そこから天地万物を創造するわざではなくて、天地万物を破壊し汚染する悪の力に他ならないのであるが。「核開発の実験」の中で、一人の研究員が被爆して死ぬ。「朝に命令する」力を手にした者、それを創り出した開発者すらも、その力によって死ぬのである。「そこには神があるのか、神なしに、人間はやって行くことができるのか」。

故無き苦難、不条理の苦しみに呻くヨブに、神は「嵐の中から」語りかけられたという。3節「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」。「男らしく」は拙い訳である。協会共同訳は「勇者らしく」と訳している。「腰に帯する」とは、戦いに出て行く時の身支度を表す言葉である。「正装」と呼んでもいい。比ゆ的には「手抜きなしの真剣勝負」の姿勢になることを意味している。つまり神は、ヨブにまっすぐに向かい合おうとされる、というのである。

「そこは神が住む(いてくれる)世界だろうか」、今の私たちの世界は、まさにそのような状態で、ぎりぎりのところに追い込まれ、崖っぷちにいる状態である。いつでも「核」を使うことができる、脅迫の言葉が飛び交う。そういう人間のおごり高ぶりの中で、「腰に帯して、まっすぐに立て」と神は言われる。そして自ら私たちの前に、自ら真っすぐに立ってくださったのである。即ち、そのひとり子、主イエスを私たちの世界に送られ。直に顔と顔を合わせて、言葉を語ってくださった。十字架の道を歩まれ、私たちの罪の赦しのために、道を備えて下さり、今も共におられるのである。クリスマスの準備が始まる。神のない世界に、冷たい飼い葉桶に、「神の子が降られた」ことがクリスマスである。今年もここにお出でくださるのである。