祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書1章21~28節

「三つ子の魂百まで」という諺がある。ごく小さなときに得た薫陶は、一生残り続け、その人の人生に影響を与え続ける、というような意味合いで用いられる。「幼児教育」の重要さを説く教えとしても理解できるだろう。幼少期、私が通わされた幼稚園は、教会附属のキリスト教主義の園であった。その幼稚園は、子どもの足でも自宅から歩いて3分位の場所にあったから、両親は、自宅から近いということと、同じ町内会で牧師夫妻と顔なじみ、という理由だけで(それだけではないかもしれないが)、私をその幼稚園に通わせたのである。面倒見の良い園で、朝八時くらいから三時過ぎまで、子どもを預かってくれ、更に完全給食が実施されており、今でもその味がおいしかったことが思い起こされ、舌に記憶として刻まれている気がする。「大豆の炊き込みご飯」が秀逸であった。

他方、キリスト教の園だから、毎週、礼拝が行われたが、その内容はほとんど覚えていない。その時間はたいくつなので友達と、ひそかに「悪さ」をしていた思い出はあるのだが。それでも、後に私が教会に通うようになったのは、その時の「礼拝体験」にあるだろうと思っている。久しぶりに懐かしい教会堂を訪れた時、これまた懐かしい牧師夫人(かつて保育してくれた先生)にお会いした時、「ダメな子ほど、後で戻って来てくれるねえ」と言われた時には、多少、複雑な思いであった。

幼稚園生活の中で、礼拝よりも楽しみだったのは、絵本の「読み聞かせ」がしばしば行われていたことである。先生方が、福音館の「こどものとも」新刊本を、読み聞かせ紹介してくれるのである。その中で赤羽末吉再話、松居直画の『大工と鬼六』が、なぜか印象深く心に残っている。

ストーリーは「橋をかける大工と目玉が欲しい鬼の取り引き」を語るもので、何度橋をかけてもたちまち流されてしまう川に、橋をかけるよう村人に依頼された大工が、川岸で思案していると、鬼が現れて、目玉とひきかえに橋をかけてやるといいます。いいかげんな返事をしていると、2日後にはもうりっぱな橋ができあがっており、鬼は目玉をよこせとせまります。「おれのなまえをあてればゆるしてやってもええぞ」と鬼がいう、という筋である。出典は日本の昔話ということだったが、北欧にも同様のモティーフの物語が伝えられているという。どちらも「鬼(超越者)の名前」が問題にされているのである。

しばらくマルコによる福音書が取り上げられる。新約の四つの福音書の中で、最初に表されたものとして知られている。これ以前に「福音書」というような様式を持った文学は世に存在していないので、これを書いた著者、「マルコ」は、新しい文学様式の創生者ということになる。今までないものを、新しく創始することが、どんなに大変なことだろうか。伝統的にこのマルコは、パウロとバルナバの第一回宣教旅行に、助手として同伴した「ヨハネ・マルコ」であるとされている。その時おそらく、年若いマルコは、旅の困難さに音を上げて、故郷エルサレムに尻尾を巻いて逃げ帰ってしまったのである。パウロは彼の腑甲斐なさをしきりに責めたが、バルナバはマルコを見捨てなかったという。後にこの福音書を記したと考えると、人間の可能性、否、人間を越えたものの働きを思わずにはおれない。

前節までで、共に宣教を行う弟子たちも招かれて、主イエスの活動の下準備が整い、いよいよ本格的に動き始めるという塩梅である。一行はカファルナウムにやって来たという。カファルナウムはガリラヤ湖周辺に位置する町で、主イエスの活動の早い時期に、その本拠地であったろうと聖書学者たちは考えている。そこで安息日に、会堂(シナゴグ)で「悪霊につかれた人」と一行は出会うのである。歴史を通じて教会というところは、年齢や出自、性別、職業他、多様な人々が集う場所であり、それが一番の特徴でもあったろう。それは元々、主イエスの宣教に遡る所に発している、とマルコは主張しているようだ。均質で画一的なものは、すわりがよく、見栄えもいいように感じられるが、教会にはおよそ似つかわしくない。その感覚は主イエスに発しているのである。

さて「汚れた霊につかれた人」が主イエスの前に出て来て叫ぶ「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」ここで男が主の名前を口にしていることが興味深い。初めての邂逅に、なぜ名前を知っていたのだろうか。こういうところにも、古代世界の実態が反映されているのである。すでに主イエスのことは、「噂」として人々の口に上っており、その情報は既に町中に流布していたのである。現代ではそれがネットによる「SNS」に置き換わっているだけの話である。

なぜこの悪霊につかれた人は、殊更「主イエスの名」に拘っているのか。古代の観念では、「名前」、本名にこそ、その実態と力の源があり、名前を呼ぶことで、その名を持つ相手を支配できる、と信じられていたのである。だから大人になったら、実の親以外は本名でなく、通名で呼び合うという習慣も存在した。つまり悪霊は、主イエスの本名、「ナザレのイエス」と叫んで、主イエスの力をけん制し制御しようとするのである。(この時代は、よほど偉い人でなければ苗字を持たないから、しばしば出身地を付けて個を区別する)。

ところが主イエスはそんな呪縛にはひるむことはない、かえって悪霊の自由勝手を許されない。教会の多様性と交錯性は、ともすると逸脱と散乱を招きかねないが、見えない主イエスの霊が、それを許さないのである。悪霊は「関係ない」との台詞を口にするが、極めて象徴的である。教会において、人と人との和を乱すことよりも、互いの関係が断絶することの方が、極めて問題である。逆に言えば、主イエスを見上げることが失われる時、つまり主イエスとの関係を喪う時に、教会はその生命を失い、主イエスの生命との交わりをも欠くことになるのである。

悪霊につかれた人の叫び、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」は、実は「信仰告白」と呼んでもいい文言である。悪霊につかれた人が、福音書の中で、初めて主イエスへの信仰を告白する。「信仰告白」とは、主イエスのまことへの応答である。どんなに破れや破綻の中にあっても、信仰はその生命が失われることはない。いや、却って悪霊につかれたような人間の危機的状況の中でこそ、主イエスの真実ははっきりと見えて来るのではないか。