年始以来、強い寒波がこの国を覆っている。北国では、例年の倍位の豪雪に見舞われている。寒い季節柄、こういう句を目にした。「素人が吹雪の芯へ出てゆくと(櫂未知子)」。作者は北海道の方らしい。「吹雪の中」ではなく「芯」と表現しているところが、実際にそこに住んで暮らす人の心情が滲んでいる。「素人」、つまり北国を知らない、他所から来た人が、ひどい吹雪の中、外出しようとするその浅はかさに、呆れて開いた口がふさがらない、という風情を詠う句である。表面的にはそういう文面である。そこで実際に生きて見たことがないくせに、あれこれ訳知り顔にものをいう、その愚かしさに鋭い警句を発するように読める章句である。ところが、「出てゆくと」という物言いには、ただ批判、皮肉ではない、共観めいた気持もこめられているように思える。
「吹雪の芯」をめがけて、怖いもの知らずの奴が「出てゆく」。止めたほうがいいと言っても、聞く耳を持たないその熱意に、思わず根負けしたのか、じゃあ勝手にしなさい、どうせ泣きべそをかいて戻ってくるのがオチだからと、半ば呆れつつ相手を突き放している。でも内心は心配している。「それでも出てゆくのか」と、あえて言葉を濁すように止めたのは、矛盾した複雑な心情を表している。実際、素人ほど無鉄砲であぶなっかしい存在はない。吹雪に限らず何が相手でも言えることだが、素人は木を見て森を見ず、と言うよりも全く森が見えていないのだから、何を仕出かすかわかったものじゃない。たまたま巧く行くこともあるけれど、それはあくまでも「たまたま」なのであって、そのことに他ならぬ当人が後でゾッとすることになったりする。そこへいくと「玄人」は、まことに用心深い。猜疑心の塊であり、臆病なことこの上ない。皆さんはどちらか、この道の「玄人」か、それとも「素人」、そもそもその道とはどんな道か。
マルコ福音書の講解が続く。「弟子の召命」に続き、今日の個所は「悪霊に憑かれた人の癒し」の物語である。マルコの描き方は面白い。普通、「宣教」と言うなら、多くの人々を自分のいるところにかき集めて、その人々を前にして、有難い教えを垂れる、というイメージである。ところが主イエスは、自分から出向いて行って、一人ひとりの前に直に立って、その一人に声を掛け、この人の声を聞くことから、始めているのである。「宣教」というものの本質を、特に初代教会の宣教のあり方を、著者は鋭く問題にしているのであろう。
今日の個所は、原文には「するとすぐ」という言葉が添えられている。この福音書の著者は、「するとすぐ」という定型の言葉を頻繁に用いて、それに続く話の口火切りの用語として語り出そうとする。ある学者は、マルコはギリシャ語が母国語でなく、それ程堪能でないから、たどたどしい言い方になる、と注釈している。常套句として単純な言葉を繰り返すのは、文章の稚拙さの表れ、その通りだろうが、「するとすぐ」と言い方には、この著者のこだわりがあるだろう。主イエスが動けば、その訪れる所、出会いの場面には、すぐに必ずドラマが起こって来る、常に新しい物語が始まる、と言いたいのだろう。主イエスと共に歩むときに、今も、同じように、新しいドラマ、新しい物語を目の当たりにすることになる。
今日の個所では、主イエスは、けがれた霊に取りつかれた人と出会われる。聖書の注解書で、古代では病気の原因はよく分からなかったから、悪霊の仕業と見なされた。確かに今の私たちにとっても、コロナ・ウイルス等は、「悪霊」と呼ぶにふさわしいかもしれない。次から次に姿かたちをコロコロ変え、変異株となり、ようやくひとつ収まったかと思えば、またすぐに新しい変異株が横行し、爆発的に感染を広げる、そしてそれがどんな悪さをするのか、その強さもすぐには知りえない。まさに現代の悪魔である。
しかしここに登場する悪霊は、悪さをするだけではない、非常に不気味なことを口にするのである。24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。まずこの悪霊は「ナザレのイエス」と主イエスの名前を呼び、仇の如く言い放っている。古代において「名前(本名)を呼ぶ」とは、相手を特定し、名を呼ばれた者を縛り付け、自分の支配下に置こうとする呪いの行為である。だから芸や力を磨き、他と競い合い、それで世渡りをする者は、本名は使わず、しこ名や芸名を用いるのである。
さらにご丁寧に、悪霊は主イエスという方の存在の本質をも鋭く見抜いており、それを口にして、相手の力を封じようとさえするのである。「お前の正体は分かっているぞ、神の聖者さまだ」。確かに、「隠しても駄目だ、お前のことは裏も表も全部お見通しだ、乙に澄ましてやがるが、お前の本当の顔はこうだろう」と喝破されたら、確かに相手はビビることは間違いない。さすがに悪霊である。
しかし悪霊の悪霊たるところ、この一語に端的に現れている。「かまわないでくれ」、この言葉は直訳すると「俺とお前は何の関係もないのだぞ」、この言葉は平たく言えば「関係ない」という啖呵である。この言葉がこの国で、当り前のように使われるようになったのは、1970年初頭頃からだという、あるドラマが放映されて、主人公の印象的な台詞として語られた「あっしには関係のないことでござんす」。これが現在では「自己責任」と名前を変えて至る所で独り歩きをしている。本来、「自己責任」とは、自己資産を投機する時に、経済の変動で損失がでても、それは自分の責任ですよ、誰のせいにもできないですよ、という意味合いだった。それが人生や生活、生命にかかわることまでに、拡大されて理解されたのである。こんな乱暴な話はない。
ところが悪霊の言葉は、そういう現代を先取りしているのである。「お前とは関係のない話だろう、それはこいつだけの問題で、この人間の自業自得、自己責任なのだから、放っておくがいいさ」。マルコは「関係ない」という言葉を悪霊の口に乗せて、悪霊の語る言葉として、私たちの前に鋭く問いかけるのである。あなたがたは「関係ない」と言って切り捨てるのか、それでおしまいにするのか。それは自分自身の人生の扉すらも、すべて「関係ない」と閉ざしてしまうことになるのではないか、そもそもナザレのあの方は、主は、「関係ない」と言って生きられたのか。
「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると」、主は「関係ない」という言葉が語られることを、お許しにならなかったという。「黙れ」という非常に強い言葉で制している。「関係ない」という言葉は、それが無意識だとしても、人間と人間の分断を創り出し、人間と人間の関係をずたずたに引き裂いて行く。だからこそ悪霊の言葉なのである。人間が語るべきでない、言えるとしても、簡単に言ってはならない言葉というものがある。それを古代人は「呪い」と呼んだ。だからこそ「黙れ」なのである。「関係ない」この言葉の不気味さを、私たちはもっと心する必要があるだろう。
しかし他方、逆説的だが、この悪霊の言葉は、マルコ福音書の最初の信仰告白であると、聖書学者たちは指摘する。つまりいわゆる人間の信仰告白は、8章でペトロによって口にされるまでは、成されることはない。却って悪霊たちの方が、こぞってナザレのイエスの真実を見抜き、それをそのまま口にしているのである。それは現在の式文のように整っている告白ではなく、乱暴で言葉足らずで、手前勝手な告白かもしれない、しかし主は、これら悪霊の乱暴に語られる言葉に、真っすぐに向き合い、それに答えられるのである。もしまことの信仰というものが口にされるとしたら、形の整った、バランスのいい、耳に快い、告白という形で、皆で口をそろえて、息が乱れることなく整然と語られるものだろうか。かえって破れの中で、痛みの中で、混乱の中で、ただ主イエスだけを見上げて、「助けてください」と何とか訴えるのが、関の山ではないか。しかしその乱雑な私の言葉に、主は答えられるのである。
吹雪を題材にした句をもう一つ。「地吹雪や嘘をつかない人が来る(大口元通)」。冒頭の「吹雪の芯の中へ、飛び出して行く人」を詠う句を紹介した。この句はその続きかと思えるような句である。そのように無謀の雪嵐の中に、あえて飛び出して行く人とは、少なくとも「正直な人」であるだろう。「玄人」は、まことに用心深い。猜疑心の塊であり、臆病なことこの上ない。では主イエスはどうか。今日の個所で、主イエスの出会った人々の印象がこう記されている。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。「律法学者のようにではなく、権威ある者として」。私たちにとって、まことに「権威ある人」とは、吹雪の中、家の奥にいてぬくぬくして、用心深く、猜疑心の塊で、臆病この上ない、という人ではなかろう。吹雪の芯の中に飛び出し、地吹雪の中を、病んでいる人々の所に歩みを進め、ついに十字架に付けられたあの方を置いて他にないではないか。