祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書9章1~9節

「日本人は、水と安全はタダだと思っている」(山本七平)、この言葉が語られてから、既に半世紀を過ぎようとしている。ここ数年のコロナ禍の中で、時の首相は「安心・安全」をことあるごとに強調した。これまで私たちは、「安心・安全」とは、犯罪や災害、あるいは国際関係の悪化による武力の行使といった外的な事柄として意識してきたが、ここ数年は、目に見えないウイルスの脅威、それが引き起こす疫病への恐れや不安、という非常に内面的な問題に直面し、葛藤して来たと言えるだろう。

蔓延がひどいと思われる地域から来た人を迫害し、その地方のナンバーを付けている車両さえも忌避し、排斥する動きが生じて来たのである。さらにワクチン接種済み証明書を、「免罪符」のようにみなし、さらにその有無を巡って、「踏み絵」のような受け止め方すらなされているように思える。「安心・安全」は決してタダではない、つまり非常に「高価」なものだということを身につまされたと言えるだろう。「高価」であるとは、金銭や権力、武力で何とかなるわけではない、ということである。本来それらは、お金では買えないものなのである。

今日の聖書の個所は、前半は「十二人を派遣する」と題され、後半は「ヘロデ戸惑う」と題されている。主イエスによって召命を受けた弟子たちが、宣教に遣わされる場面である。さらに、こうした活動を行っている主イエスと、その弟子たちの噂が、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス王の耳にも入り、王は「戸惑った」、というのである。この「戸惑った」とは、「訳が分からない、腑に落ちない」という意味であるが、ただ「分からない」というだけではなく、「分からないが、なぜか心惹かれる、非常に気になる」という意味である。ヘロデ王は「イエスに会ってみたい」と思ったと記されている。そしてこの言葉は、ただヘロデだけの問題ではなく、ナザレのイエスに共感する人も、反感を覚える人も、好むと好まざるとにかかわらず、人々の心に生じた感覚であったと、著者は暗にほのめかしているのである。「あのバプテスマのヨハネを殺した残虐な王すらも、ナザレの人に強い興味を示したのだ」と。

主イエスは自ら呼びかけ、招かれた弟子たちを、さまざまな場所に派遣されたという。1節「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わ」されたのである。弟子たちは「悪霊に打ち勝つ、病気をいやす力と権能」を主から授けられた、という。医学が未発達の古代では、疾病の本当の原因が分からなかったため、「悪霊」に起因するものとされた。その「悪霊」が病人を離れれば、恢復するという訳である。主イエスが授けた「力と権能」がいかなるものかは不明であるが、現代風に言えば、先生の下で「スキルを培った」と言うことであろう。何となれば、悪霊に打ち勝ち、病気をいやすとは、現代では「看護」あるいは「介護」に比する仕事である。「スキル」は単に学問的知識や知性だけによって養われるのではない。人間に対する事柄、特に「信頼」を重要な媒介とする仕事は、さまざまな現場での経験がものをいい、特に、現場で師と仰ぐ人や先輩たちの存在、さらにはそれらの人の振る舞いや声掛け、仕事ぶりを見て、それに「倣う、まねる」ことに尽きるであろう。主イエスは人々から、「ラビ(先生)」と呼ばれていたが、その呼称はまさしく主イエスの人となりをよく表すものだったであろう。単なる敬称ではない。親愛の師である。

但し、十二弟子だけが、主イエスの名代で、宣教活動に従事したという訳ではなかろう。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天、聖霊降臨の出来事から程なく、パレスチナだけでなく地中海周辺のヘレニズム世界に、いくつもの教会が立てられ(もちろんそのほとんどは家の教会だったろうが)、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人等様々な人々が、教会に集うに至ったというのは、ただこの直参の弟子たちの、あるいは後に使徒に加えられたパウロのみの功績によるのではない。主イエスの出会い、その後について行った多くの人々が、十二弟子と同じように、いやそれ以上に、主イエスからスキルを与えられて、宣教に邁進したのが事実であったろう、だからこそ多くの人々に、大きな影響を及ぼすナザレの人は、危険視されて十字架に付けられ、そのみわざを受け継ぐ者たちも、激しく迫害されたのである。

興味深いのは、弟子たちを派遣するにあたって、主イエスが次のように命じたことである。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」。着のみ着のままで、一切、何ものも持たず、手ぶらで旅をするように出かけて行き、誰か招いてくれる人がいたら、その家だけの世話になり(いろいろな家を渡り歩かないで)、誰も招いてくれないなら、非難がましいことは言わず、ただ足についた埃を払い落として、文句の代わりとしなさい、と言うのである。

ルカは他の福音書の記事と比較して、派遣の時の弟子のいで立ちを極端に描こうとする。他の福音書では、主イエスは必要最低限の携行品は持つように、と教えるので、本来はそちらの方が元々かもしれない。全くの手ぶらでは、散歩はできても数日の旅をすることは不可能だろう。しかしルカは、主が指示された言葉の真意を見抜いている。同じ著者の書物の中に、「良いサマリヤ人」の譬話がある。あるユダヤ人が街道で(ユダヤからサマリヤに通じる道で、祭司やレビ人が通るくらいだから、人っ子一人通らない獣道ではなく、ちゃんとした交通路である)、追剥に襲われて瀕死の重傷を負った、というのである。交通の要衝の「街道」であっても、強盗が出没する、というよりは、人が頻繁に行き来するからこそ、強盗が出没するのである。彼らはプロだから、金をもって旅する輩をすぐに見抜き手早く襲う。当時の「旅」とは、絶えずそのような危険がまとわりついている。では安全に旅をしたかったらどうするか。護衛船団の如く、腕っぷしの強いボディーガードを雇って、まさかの時に対峙するという方法がある。しかし主イエスはそれよりももっと単純明快な方法を指示する。手ぶらで何も持たず、まったくの無防備で行きなさい、と。強盗も余計な手間はかけたくない。「くたびれ儲け」の仕事には手は出さないだろう。「足の埃」についても同じである。文句のひとつも言ってやりたいところだが、聞きとがめられて喧嘩にもなろう、口は禍いのもと。すると主イエスは、実に派遣される者たちの、安心・安全を第一に考えて下さっている。このような心の持ち主である主から、私たちは派遣されるのである。今もなおそうである。