「正しい者も正しくない者も」使徒言行録24章10~21節

「今、スペイン風邪に学ぶ」という文章に出会った。100年前に世界規模で深刻なインフルエンザや流行し、多くの方が命を落とした。その歴史に学ぼうと言う。ペスト、梅毒、天然痘、コレラ、スペイン風邪、インフルエンザ等々、もともとはローカルに制御されてきた風土病がグローバル化によって全世界に移植され暴走し出すのがパンデミックである。いまだに薬、ワクチン、迅速な検査方法がない。科学は進んだのに、未知のウイルスが発生すると、できる事は百年前と変わらない。日本ではマスクが百年前にもあり、既に様々な提言がされていた。水が貴重であったせいか、手洗いの記述はない。当時、子どもを亡くした与謝野晶子が問題提起していた。なぜ政府は休業制限しないのか。なぜ人々を密集させながら感染予防を呼びかけるのか。(その上で)「人事を尽くして天命を待つ」という晶子の言葉が残されている。(福島民報:6月21日付「日曜論壇」)。さすが才女、厄介で手に負えない、未知の「疫病」に対して、現代でも通用する、全く変わりない主張が、掲げられていることに驚かされる。

今日の聖書個所の少し前に、使徒パウロへの人物批評が記されている。5節「実は、この男は疫病のような人間で」。皆さんは「疫病のような」という喩えに、どんなイメージを抱かれるだろうか。現今の私たちの抱える状況を思えば、この言葉の意味合いのリアルさもよく伝わってくるのではないか。敵対者の言辞であるから、「悪意」のこもった言い方であるが、こんな「喩え」でパウロが、陰口をたたかれていたのかと思うと、同情もするが、その通りと賛同したくもなる。ただ単純に「嫌な人間」という意味合いではないだろう、「質が悪い」とか「どうにも手に負えない」とか、「櫃筋縄ではいかない、やっかいな輩」とか、複合的な、意味深な含みを持った言い方であろう。

ウイルスのように、小さくて大した影響はないような人物にも思える、が、いつの間にか傍にいたら知らず知らずに、その思想に「感染」してしまい、いつか「病膏肓」に陥る、というような感じであろうか。確かに、パウロにはそういう面が強くあったと思われるが、彼のみならず、初代教会の宣教の状況には、非常に不思議な面が認められる。ヨセフスというユダヤ人歴史家、非常な慧眼を持っていた知識人であるが、なぜこんなにもキリスト教が信仰されるのか、「十字架に付けられた者の復活」、という荒唐無稽な教説を信じる、信者の無知蒙昧さに呆れ、軽蔑交じりに語るのだが、キリスト者の信仰に大きな驚きを呈しているのである。「なぜ人々があのナザレのイエスを慕い続けるのか、分からない」。「疫病のような」というレッテルは、パウロを超えて、キリスト教一般に付けられたものだと言えるであろう。

その「疫病のような男」パウロが、エルサレムのユダヤ人たちから訴えられて、ユダヤ総督フェリクスの前で弁明する、という場面である。その弁明の中心に、彼の信仰理解が見事に表白されている。15節「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」。正直言って、この言葉がパウロの口から出るのは、驚きである。ユダヤ教は、正しさ、神の義を追求する宗教である。神から与えられた律法を落ち度なく、完全に遵守することで、神から正しいと認めていただく、というのが究極の目標なのである。パウロはこの目標に向かって、人一倍熱心に努力や精進を行った。それで、神に正しいと認められる確信を得たかと言えば、真逆であった。頑張れば頑張る程、神は遠くに離れ、律法を全うする道は、遥かに険しくなったのである。そしてその行き詰まりのさ中に、復活の主にお会いすることになる。エマオ途上で、主イエスに出会い、彼の目が見えなくなる。これは比喩的に「彼の正しさが崩れた」「大切だと集中していたことが、無になった」という表現であろう。

今日のテキストには、そういう彼の回心が、また別の言葉で記されている。15節「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」。この言葉は、主イエスが語られたみ言葉のアレンジである。マタイによる福音書5章45節「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。このみ言葉を強く意識して、「正しい者も正しくない者も」と発言しているのであろう。

「善人にも悪人にも、正しい者にも正しくない者にも」という言葉に皆さんはどう反応するだろうか。有難いと思われるか、あるいは納得がいかない、と思われるか。一生懸命、真面目にがんばって生きている人は、不快に思うかもしれない。努力してもしなくても、取り扱いは同じか。あるいは神のふところの深さを感じて、その恵みの大きさに痛み入る人もいるのではないか。皆さんはどちらか。主イエスのみ言葉は、それぞれの人にとって「鏡」のような働きをする。自分自身の人間のありのままが、映し出されるのである。

但し、この「正しい者にも正しくない者にも」というみ言葉を、神の前の平等、神の前の公平の教えとして理解するのはどうだろうか。「太陽が昇り、雨が降る」という事柄も、確かに大きな恵みではあろうが、余りにカンカン照りだと、「熱中症」で生命の危険をもたらし、あるいは干ばつを来たらせる。また田畑を潤す雨も、大雨が続けば、川はあふれ洪水を引き起こし、これまた生命の危険をもたらすであろう。パウロの言葉にしても、「正しい者も正しくない者も復活をする」という。私たちはこの世の生を終え、亡くなったとしても、いつか目を覚ますことになるのである。では「復活」した後、私たちはどうなるのか。どのような新しい生がそこには待っているのか。「神の前の平等、公平」という理屈で、簡単に名納得してしまえないみ言葉なのである。

遠藤周作の小説に『夫婦の一日』という作品がある。いくつかの小さな作品が連作になってひとつの小説に仕立てられている。こんな文章が記される。「神は、ある者には、老年と共に安らぎを与え、他の者には、老年と共に死の恐怖、生命への執着、生き残る者への嫉妬、醜いあがきを与える」。ここには小説家自身の、晩年の煩悶があるだろう。小説家自身が「老い」の中で、このような心と直面したのだろう。ひとり一人の人間の違い、境遇やら状況、環境の中で、別々の人生を歩むひとり一人の人間。その人間に対して、神の前の平等、公平というものがあるのか。あるとしたらそれはどういうことなのか。

こういうひと行も語られている。主人公の従兄の通夜、外国人の神父が、聖書の一節を朗読する。神は悪人の上にも善人の上にも・・・太陽をのぼらせ、正しい者の上にも、正しくない者の上にも、雨をふらせてくださる。通夜が終わってから、主人公は神父に尋ねる。 さっきの言葉ですけど…神は善人の上にも太陽をのぼらせ、雨をふらせてくれるとは…

あれ、どういう意味ですか?。神父が答えます。それは、私たちには、どの人が善人で、

どの人が悪人か、裁いたり決める資格はない、と言うことでしょう。誰だって、他人の心の底はわかりませんですし、善人にみえる人の本心も、悪人にみえる人の本心も、わかりませんです。自分だって、自分の本当の心がわかりませんですから。それを見ぬけますのは神さまだけです。そういう意味と思います」。

私たち人間は、正しい、そして正しくない、どこかで決めつけながら生きている。そうでないと社会は滅茶苦茶になると考えるからだ。パウロもそうであった。しかし神は、人間の正しさに従われる方ではない。正しかろうが正しくなかろうが、「復活」即ち、神の新しい生命をもって、私たちに出会ってくださる。それをただ受けるしかないのである。