祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書2章33~40節

この世の中で、「クリスマス」というと子どもや若者というイメージが浮かんでくる。ツリー、イルミネーション、ケーキ、プレゼント等、華やかで浮き浮きした雰囲気が思い起こされるからである。お年寄りの施設では「クリスマス会」は催されるが、食事のメニューが、いつもと違うくらいのものである。

ある人が聖書のクリスマスの話を読んで感想を語った。「聖書のクリスマスに出て来る登場人物は、生まれたばかりの赤ん坊のイエス、その両親を除けば、みな年寄りばかりではないか」。確かにその通りである。誕生間もない主イエスの下に、羊飼いと東方の博士の来訪があったとされるが、羊飼いたちの年齢は不詳としても、博士はおそらくは高齢だったろう。何せ異国の占星術の学者である。知識人である。クリスマスの前に、バプテスマのヨハネの誕生が記されるが、その両親、ザカリアとエリサベツも、高齢だったと伝えられる。そして今日の聖書個所、神殿詣でにやって来た聖家族、日本でいるお宮参り、誕生後まもなく氏神詣でをするこの国の習慣をほうふつとさせる、にシメオンとアンナというこれまた高齢者が出会う、という筋書きである。どうして最初のクリスマスに、年寄りばかり登場するのか、ちと頭を巡らす必要があるだろう。

アンナ、ヘブライ語ではハンナ、彼女は84歳だったという。その人生は、若い時に嫁いでから7年の間、結婚生活をして、その後夫と死別し、その後、独り身で、ずっと神殿に身を寄せ、女預言者として生きて来たというのである。「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と記されている。「アシェル族、ファヌエルの娘」と家系が伝えられているから、それなりの家門の出身であったろう。夫と死別後、再婚の機会もあったろうが、それをしなかったのは、本人の硬い決意によるものであったことは容易く推察される。おそらく亡夫への深い思慕であったろうか。

「アシェル」族は、ヤコブの子孫の中で、おそらく小規模の目立たない氏族だったろう。創世記49章20節には「アシェルには豊かな食物があり/王の食卓に美味を備える」と評されており、王国が成立すると、宮廷の司厨役を果たしたのだと思われる。いわば料理番である。ソロモン時代の王国ともなれば、ソロモンの一日分の食料は、膨大なものであったことが伝えられている。列王記上によれば、「小麦粉三十コル。大麦粉六十コル。それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百頭、そのほか、雄鹿、かもしか、のろじかと、肥えた鳥」であった。これだけの賄いをし、さらには国内外の賓客のための食卓を準備する、大変な務めだったろう。殊に口に入れるものを任されることは、絶大な信頼がそこにあると言うことである。

アンナはそういう家系の出身の者であり、やはり職人気質の一本気な人間だったのではないか。自ら「断食をする」というのも、シェフとしての気骨の表れだろうか。食によって他人への満足を提供するためであって、自らの腹を満たすために仕事をするのではない。

但し、実際の彼女の生活は、神殿に身を寄せるホームレスであり、人々に聖書のみ言葉を語り、人生相談に乗り、わずかばかりの寸志を受け取るといったつつましやかなものだったにちがいない。おそらく60年近くもの間、彼女はその生活を続けていたであろう。この世の価値観からすれば、清冽な生き方ではあるだろうが、幸薄い人生、と言えるのではないか。古代において、主人に先立たれ、子どもの居ない未亡人は、後ろ盾や拠り所を欠いているので、最も弱い立場に身を置いていた。その弱い所に置かれた者が、最も大きな祝福を味わうことになったのである。神のなさる出来事は、必ずそのような形を取る。

アンナは84歳の高齢にして、主イエスと出会い、そして「エルサレムに救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを話した」と伝えられる。女預言者(伝道者)のひとりとして、最も重要な仕事を、いわばその頂点たる務めを、この年齢になってから果たしたというのである。神の託される仕事は、年齢によらない、若い時には若いなりに負える務めを、神は与えるだろう。そして神のための仕事には、年老いなければできない、というものが確かにある。その神の務めを、アンナはここで、ごく自然に行っているのである。

おそらく彼女は神殿を訪れる人には、良く知られていた存在だったろう。もう60年もの間、神殿を自分の住まいのように生活し、そこを訪れる参詣人たちと顔見知りになるくらい、時を過ごしていたろうから。神殿やお参りの作法に不慣れな人、道に疎い人にとって、神殿の主(ぬし)とも言える人間がいることは、実に心強いのである。そういう主のような人物の言葉を、人々は信頼して聞くことだろう。最も弱い所に置かれ、地味な働きをする中で、彼女は年を取り、その地味な働きの年月のなかで、主イエスでとの出会いが起こって来た。孫ひ孫にあたるような幼子に、救い主の誕生を見ることができたのも、この高齢の女にとって、至福の出来事であったのではないか。将来の救い主が、今、かわいい赤子として自分の腕の中に抱かれている。それは彼女にとって、神からの大いなるご褒美とも感じられたことだろう。神は、何と見事なドラマを準備されているのだろう。

ルカは、アンナの物語を記すにあたり、教会に身を寄せる高齢のやもめたちのことを思い浮かべていることだろう。教会は主イエスの愛のわざを受け継ごうと、世の中の寄る辺なき人々に、その門を開いた。その筆頭が、高齢のやもめたちであった。後ろ盾を持たず拠り所を失った人々である。そのような立場に置かれたからこそ、彼女たちは主イエスのみ業とみ言葉を、誰よりも雄弁に、的確に証しすることができたのではないか。まさに主イエスは、そのような人々と共に歩まれたのである。

アンナはただ人々のお情けにすがって齢を重ねたのではない。女預言者として、神の言葉を伝える者として、神殿に参詣する人に、いろいろな触れ合いを持っていた。そのように教会のやもめたちも、ただ世話をしてもらうだけに人々ではなかった。教会に出入りする人々のために祈り、声を掛け、いろいろ世間話もしたことだろう。それによって慰めや勇気を与えられ、彼女たちがそこにいてくれるだけで、皆は安心できたのではないか。アンナの物語は、実に教会の日常を見事に描いている話ではないだろうか。教会はアンナを支えたが、教会もまたアンナによって支えられているのである。