「永遠の命を得て」ヨハネの手紙一5章10~21節

世界最高齢のエンターテイナー、と言われた芸人が大阪の尼崎市におられた。豊竹団司(だんし)さんという名前である。語りだけで観客を酔わせる女義太夫界の名人と呼ばれた。この方が95歳のとき、こんな話をしている。「名人? そんなんどないでもええです。客がどう思てるか、そんだけのことです。ようできたいうのは、三味線と合って体の調子もええときやが、めったにおまへん」。名人と呼ばれるような人でも、幾多繰り返す舞台の中で「良くできた」ということば「滅多にない」ことなのだ。

またこうも言われる「客が10人おったら、4、5人は『お前の芸は嫌いや』言う。芸いうんはそんなもんです。あくびされたらいかんさかい、客席をじいっと見てますねん」。人間、皆に等しく好かれるわけではない。自分の芸を気に入っているくれる人もあり、嫌いな人もある、それが人と人との関係の実際であり「10人のうち、4,5人は、自分の芸を認めてくれていない」という。私たちは誰にも好かれたいと、望外な望みを抱いて、却って自分らしさを失うのだろう。だからこそ、95歳の高齢になっても、「じいっと見る」つまり集中するべきものがあり、なおも自分の外側に目を向けて、注目するものを持っている。生きることの真実を教えらえるように思う。それにしても95年に余る生涯を通して「変わらないものがある」というのは、それが何であれ素晴らしいことなのではないか。

今日は敬老の日を覚えて礼拝を守る。礼拝後には、今年「米寿」を迎えられた方々をはじめ、高齢の方々を覚えて、お祝いし、祝福を祈る時を持ちたい。例年のように今年は共に食事をして、共に喜びつつお祝いの会を持つことができない。心残りと思いながらも、私たちの人生の中で、時に今年のような「健康の危うさ」を味わいつつ、それでも生きて、生かされている生命の不思議さを、強く感じさせられている中での敬老のお祝いである。「齢を重ねる」ことがどれほど尊く、重く、人間の思いではどうにもならないもので、感謝するしかないことを知らされることは、やはり大切な今を、かけがえのない時を生きることだと、深く人生から教えられている気がする。人間の生命には限りがあるが、その生命を何よりも重く受け止めることが、与えられた人生に対する最もふさわしい礼儀なのである。

ヨハネ文書のキイワードの一つが「永遠の生命」である。今日の聖書個所にはそのものずばり「永遠の生命」と題されている。「永遠の生命」という言葉を聞いて、どのような感慨を抱くだろうか。もちろんこの世、地上での人生には、皆、限りがある。誰も「死なない」人はいない。だからこそ古来、伝説や昔話の中に、「永遠の生命」を与える果実や霊薬を探し求めて地上を旅する話が、世界には数多く伝えられている。旧約聖書にも、創世記に「永遠の生命の木」が語られている。生物としての人間の強い願望が、そこにある。

しかしヨハネの語る「永遠の生命」とは、生物学的な意味ではなく、宗教的な象徴表現(表象)のひとつであることに注意したい。地球上には、プラネリアのような「死なない生物」というものが存在する。非常に原始的な生命体である。ヨハネはそう言う生き物を例に挙げて「永遠の生命」と言っているのではない。つまり、いつまでも死なない、無限の時間を生きるというのではなく、この無常な移り変わる世界において、普遍的な意味と価値を有するものというような意味である。「変わらないもの、いつまでも残るもの」という言い方もできるだろう。

「永遠の生命」とは、他の福音書では、「神の国」という言葉で表される事柄の、ヨハネ的な表現なのである。ヨハネは、福音書も共観福音書のように、同じような流れ、形式で書いてゆくことに飽き足らず(つまり人まねを潔しとせずに)、自分の書き方で主イエスの公生涯を描き出そうとした。そういう個性を求める性格が、著作の用語にも反映している訳である。信仰者が、主イエスを信じることの報酬、あるいは褒美として「永遠の生命」が与えられるということではない。また努力や精進や、信仰心の熱さが、「永遠の生命」をもたらすのでもない。20節にそれが結論として端的に語られているだろう。

「神の子が来て、わたしたちに真実な方を知る理解(力)を、与えて下さるであろう。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです」。主語は「わたしたち」ではなく「主イエス」であり、真実な方、つまり神を知ることも、神の内に生きる、つまり神を信じて生きることも、皆、自分の力によるのではなく、主イエスの働きによるものなのである。この主イエスこそ、「真実の神、永遠の命」への絆であって、実に主イエスにつながることは、神に、永遠の命に結ばれることである。

8月の終わりの地方新聞に、こういう記事が載っていた。「1901年の第1回ノーベル平和賞受賞者は、赤十字社を創設したアンリ・デュナン。彼は1910年に亡くなるが、その年のきょう8月26日にマザー・テレサが生まれた。今年で生誕110年。テレサはカルカッタ(現コルカタ)で貧しい子どもたちの教育活動に励み、79年にノーベル平和賞を受賞した。デュナンが亡くなった年にテレサが生まれたのは巡り合わせだろうか。利他に徹した2人の生涯は似通い、デュナンからテレサへ『見えないバトン』がつながれたのかと思う」(佐賀新聞「有明抄」8月26日付)。

「永遠の命」は、神が手渡される「見えないバトン」のようなものかもしれない。一人の人の地上での生涯には限りがある。どんなに偉大な生涯であっても、いつかは終点を見迎える。しかし、「永遠の生命」のバトンは、その人一代限りで、終わってしまうものではないだろう。そして、テレサのバトンを自ら受け継いだかのような人の名前を、私たちは幾人をも、思い起こすことが出来る。例えば、聴診器を重機のハンドルに持ち替えて、荒れ地に生命を支える水を注ごうとした医師、中村哲氏もその一人だろう。しかし、わたしもあなたも、主イエスの下にある人々は、神からの永遠の命のバトンを、手渡されているのである。

サンテグジュペリが残した言葉に「われわれは先祖から地球を受け継いでいるのではない。子どもたちから借りているのだ」というものがある。未来は、「子どもたちからの借り物」、その子どもたちへのせめてもの贈り物が、神から預かった、目には見えない「永遠の生命」のバトンではないか。