「父の心、子の心」 マラキ書3章19~24節

こういう小話がある。あるクリスト者が、その地上での生涯を終えて、神のみ下へ召された。天国に入る前に、何か望みはあるかと問われて、「地獄を一目見てみたい」、と願った。願いが叶って地獄に行ったところ、そこに「地獄に仏」ならぬイエスさまがいるではないか。驚いて「どうしてあなたがここにおられるのですか」と尋ねると、イエスは言われた。「父子、二人だけというのはなかなか気づまりなものでね」。

親と子の関係は、ひと筋縄ではいかない。子どもは自分から望んで生まれて来るわけではない。子どもは親を選べない。なぜか知らないが、そこに「生まれさせられる」のである。親の思い通り、計画通り、願い通りになるわけではない。逆に子どもからしてみても同じである。だから親子の関係には、葛藤や軋轢、行き違い、対立、時には「虐待」という悲しむべきあってはならない事態が生じる。聖書、特に旧約はそのあたりのことを詳らかに記すのである。

先般、厚労省は、親から子どもへの「体罰の定義」を公にしたが、「身体に何らかの苦痛、または不快感を引き起こす行為」と、今回初めて明確に示した。このガイドラインでは、具体案も挙げられている。何が体罰になるのか。例えば、「口で3回注意したけど言うことを聞かないので頬をたたいた」、また、「大切なものにいたずらをしたので長時間正座をさせた」。こういった手を上げるような行為ばかりではなく、「宿題をしなかったので夕ごはんを与えなかった」。これは、いずれも体罰にあたるとなっている。そして、ガイドラインでは、こういった身体的なものだけではなく、言葉も含まれる。例えば、「お前なんか生まれてこなければよかったんだ」と、子どもの存在を否定するようなこと。また、ついやってしまいがちだが、きょうだいを引き合いに出して、ダメ出しや無視をしてしまう」。しかし他方、こうしたことまでお役所が口を出す時代とは、何なのか、と正直思わされる。

今日は旧約マラキ書から話をする。「バビロン捕囚」時代に活動した預言者である。捕らわれて、すべてを奪われてバビロンという異国に住むようになった人々へ、神の言葉を語った預言者である。その時の人々の信(心)的状況について、興味深い記述がある。直前の3章14節「神に仕えてもむなしい。何の益があろうか」、真面目に、誠実に生きても、何の希望があるかというのである。却って「高慢なものは幸い、罰を免れているから」。この世は要領よく上手くやった者勝ちではないか。「信じて生きても空しい」これは実に人間のもっとも深刻な課題を表す事柄なのである。ここには、だた「神」だけが問題なのではない。人間の「信」そのものの虚しさ、偽りの表明だからである。人間と神だけでなく、人間と人間の絆、信頼やふれあい、共に、ということも、すべて空しい、つまらない、無益だというのである。所詮、すべてが「自己責任」ではないか。俺が、お前が悪いのではないか。

こういう捕囚の中に生きる人々の生の声を受けて、マラキは語るのである「主の日」について。この個所はアドヴェントで必ず読まれる聖書テキストの一つである。確かに希望溢れる章句が見える。20節「義の太陽が昇り」「子牛のように躍り出て飛び跳ねる」。冬の寒く暗い、光のない季節に、輝く義の太陽が昇る。春がやって来たので、それまで檻に閉じ込められていた子牛たちが、野に放たれて喜び、ぴょんぴょん飛び跳ねるさまが、印象的に描かれている。まことにクリスマスにふさわしい章句である。

ところがこのテキストは「主の日」つまり神の裁き、終末の時の有様が告げられている個所なのである。20節をカッコに入れて読むなら、随分厳しい告知がなされていることが分かる。「炉のように燃える火、すべて燃え上がらせ、根も枝も残さない。神の足下で、灰になる」。旧約では、「神の裁き」は、金属精錬のための炉に喩えられる。金銀や銅を練り清め、純度を高めるための道具である。来年のオリンピックのメダルには、都市鉱山の貴金属が使われるという。古くなり大量に捨てられた携帯やパソコンには、ほんのわずかだが微妙な貴金属が使われている。それを溶かし出して、再び使おうというのである。天然の鉱石にも不純物が多く含まれている。それを一度高温の炉で溶かし、不純物を燃やし、余計なものを取り去り、価値あるものをより分けるのである。生きて来て、自分の人生の真に価値あるものが明らかになる時、こそ「神の裁き」の時である。「何がほんとうの価値か」は、人間の目からは分からない。

すると「裁き」とは、いつまでも残る価値あるもの、永遠のものと、ひと時のものがより分けられる恵みの時なのである。ひと時のものは、燃えて灰になる。地面に投げ捨てられ散らされる。罪と価値のないものを有難がってせっせとため込み、価値あるものを捨てている愚かさ、的外れ、それが正されるのである。その日のために預言者エリヤが遣わされる。ここに不思議なみ言葉が語られている。その預言者の言葉は、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」というのである。「親の心が子の心に結ばれ、子の心は親の心に結ばれる」とはどういうことだろう。

吉野弘氏の作品に『父』という詩がある。「何故 生まれねばならなかったか。子供が それを父に問うことをせず/ひとり耐えつづけている間/父は きびしく無視されるだろう。そうして 父は/耐えねばならないだろう。子供が 彼の生を引受けようと/決意するときも なお/父は やさしく避けられているだろう。父は そうして/やさしさにも耐えねばならないだろう/」。

父親と息子との間の関係をこの歌は言葉にしている。その微妙な関係を、詩人は「無視、避ける、耐える」という比較的強い言葉で表現している。黙って見守りたいのに、つい口が出てしまう。言いたいことはわかるけど、聞く耳を持たない。いつまでも子どものことを心配する、いつまでも親は元気だと思い込む。何とか傷つけないように、と絶えず思い、ついきつい言葉で反応してしまう。最も身近で、深く思いつつ背を向け合う、そんなちぐはぐに見える親と子の心、なのだが、ちぐはぐで的外れではあっても、心の道が全く途切れてしまっているのではない、通わなくなってしまっている訳ではない。どのようにその道を通って行ったらいいのか、どんな風に歩んで行ったらいいのか、分かないだけだ。預言者の語る言葉、つまり神の言葉によって、その心はまことに結ばれる時がある。

ペシャワール会の医師、中村哲氏の訃報が伝えられた。大きな悲しみを持って聞かれた方も多かろう。十数年前、一時帰国を機に、お招きして話を伺った時には、運河工事の真っ最中であった。「今は聴診器ではなく重機(掘削)の運転ばかりです」と笑っておられた。印象に残っているのは、「聖書の言葉が、本当にそのとおりになるんですよ」と言われたことである。イザヤ書35章「荒れ野に水は湧きて、砂漠に川が流れる。焼けたる砂地は池となり、乾いた地は泉となる。その時、見えない者の目が開かれ、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人は鹿のように踊り上がり、口の利けなかった人は喜び歌う。人々は主の栄光と輝きを見る」、先ほどのマラキ書のヴィジョンと通じるものがある。中村氏は、現地の人々共に、ブルドーザ重機を運転しながら、この神のヴィジョンを見ていた。「まばゆい小麦の若芽が一面に広がる。鳥たちが舞い、水辺の草地で羊たちが憩う。ここが本当に何もない砂漠だったのか、キツネにつままれたようだ」。

こういう氏の思い出が綴られている。パキスタン北西部のペシャワールでハンセン病治療と無医村での診療にあたっていた中村氏がさらに奥地に赴いた時である。ある家に呼ばれ乳児を診たが、今夜が峠だと告げるしかない重い病状だった。だが中村さんが息を楽にする甘いシロップを与えると瀕死の赤ん坊は一瞬ほほえんだ。その夜に亡くなったが、人々が中村さんをたたえた。それは「言った通りだった」からだ。そこでは医師は神の言葉を伝える者として尊敬されていた。「死にかけた赤子の一瞬の笑みに感謝する世界がある。シロップ一さじの治療が、恵みである世界がある。生きていること自体が与えられた恵みなのだ」。そう中村さんはそう書いている。

ひとさじの甘いシロップが、重い病気の子どもの心を開き、笑顔を創り出す。そのひと時の笑顔は親たちの心を開く。「父の心を子に、子の心を父に」、それは赤ん坊の一瞬の微笑みの中に、神の大きな恵み、生きていること自体が、大きな恵みであることを知り、分かち合うことが起こる。だからこそ、恵みの光の中で、子牛は喜び、踊り、跳ねるのである。神の子が、赤ん坊として飼い葉おけの中に生まれたもう。いつ死んでもおかしくない、小さな命が一瞬みせる微笑み、それを見て、人間はどれ程救われ、安心し、憩うことだろう。生まれてきて良かったと思うことだろう。