「自分の家に無事に」列王記上22章6~17節

 

最近、この国でも「ブラック・フライデー」という言葉を聴くようになった。「暗黒の金曜日」とは何か。復活祭前の「グッド・フライデー」は、主イエスが十字架につかれた日「受苦日」の呼名である。主が十字架で血を流し、苦しまれた。大きな悲しみの日であるが、しかしそれは神にとって「良い」ものであった。私たちはいささか複雑な思いで、この言葉を受け止める。

一方「ブラック・フライデー」。その起源はこう説明される。11月の第4木曜日、アメリカでは「感謝祭」である。家族で七面鳥を食べ、この日を祝う。そして翌日の金曜日から、クリスマス商戦が始まるのである。「ブラック・フライデーは、フィラデルフィア警察署が「感謝祭、サンクスギビングデー」の翌日につけた言葉であり、一般の愛称ではない。この日は都市部で正式に、クリスマスショッピングの季節をスタートするもので、中心街の小売店らが、開店から閉店まで大混乱となり、それにより多くの交通渋滞や歩道が大混雑する。商店は黒字で大儲けでホクホクだろうが、治安を維持する警察にとっては、厄介でうんざりさせられる日なのである。市民にとっては、喜びのクリスマスの始まり、警察にとっては「暗黒の金曜日」という次第。「誰かの笑顔は、誰かの涙」、というところか。

今日は、列王記上22章から話をする。このテキストを読むと、紀元前8世紀の聖書の国の有様が、現代の私たちの世界と、さほど変わっていないことに驚かされるとともに、やりきれない思いにもさせられる。聖書の国イスラエル王国は、すでに「ワン・チーム」という一致の絆を失い、北と南に分裂している。北の王国を統治するのはアハブ王、但しこの王、列王記の著者にいたく嫌われていたらしく、名前で呼んでもらえないで「イスラエルの王」とそっけなく呼ばれている。そして南王国ユダを統治するヨシャファト王、この二人がやりとりしている。王国は分裂したものの、まだこの頃には、「犬猿の仲」というほどではなく、利害が相反し、ひとつ腹には成れないまでも、「まあ仲良くやって行こうや」という間柄である。

アハブが提案する。今、アラム、今で言うシリア、が弱体化している。このチャンスに乗じてかつての自分たちの領土である「ラモト・ギレアド」を取り返したい。同盟国として共同戦線を張ろう。ところが南王国の王ヨシャファトはあまり乗り気でない。まあ、北に恩を売っておくのも悪くはないが、あらぬ厄介には巻き込まれたくない。そこでヨシャファトは正論を吐く、「まず主の言葉を求めてください」。「まず神意を求めよ」。

イスラエルの王たるものの言動として、これは非常に信仰的な言葉に聞こえる。実はやんわりした断りのセリフである。弱体化していると言えども、遥かに国力のまさる大国シリアである。そうやすやすとはいかないことは明らかである。それに「ラモト・ギレアド」は南にとって安全保障上、それ程のメリットのある場所ではない。火中に栗を拾う馬鹿は居ない。断りの口実に、「神意を尋ねよ」、と求めたのである。これでは神を出しにしているとしか言えない。信仰者にとって、神の言葉は絶対であろう。しかしヨシャファトにとって、神の言葉は、自分に向けられた、自分の魂に真っすぐに語られ、自らを問うもの、真摯に受け止めるものではない。ただ交渉の政治的ツールでありカードなのだ。つまり信仰とは他人事なのである。

先日、この国で、二人の「フランシスコ」が顔を合わせた。一人は言わずと知れた現ローマ法王であり、もう一人は元総理大臣の閣僚である。この政治家がキリスト者であり、しかもフランシスコ(アッシジのフランシスコ、貧しき兄弟の修道会の開祖)という洗礼名を授けられていることに、皆驚いたと伝えられる。比べるべくもないが、同じ名フランシスコでもこうも違うものか、うがった見方をすれば、これは神のアイロニーかとも思える小さな出来事でもあった。

「神意を問え」と言われたアハブは、すぐに「400人の預言者」を招集し、預言させたというのである。「数こそ正義、数にものを言わせて」相手を説得しようという目論見だが、もちろん彼らは、皆アハブの息の掛かった御用預言者である。彼らは口々に叫ぶ「攻め上ってください。主はすべて王の手にお渡しになります」。これら預言者たちは、言葉だけでなく一大パフォーマンスを繰り広げる。城門の前、最も人通りの多い目立つ場所で、威勢よく「数本の鉄の角」を作って、華々しく気勢を上げ、「敵を殲滅せよ」、とばかり大騒ぎし怪気炎を上げた。ポピュリズムの典型的ふるまいである。アハブの政治の実際がよく表れている。

イスラエルの信仰の基は、神の前にひたすら沈黙することである。しかしここで言葉を冷静に、沈黙して聞こうとするのではない。自分を虚ろにして無にして、ひたすら神の言葉に聴こうとする姿勢はここにはない。大勢で高らかに万歳三唱、気炎を上げる、これが神の民イスラエルの政治の実態であり、信仰の実際だったのである。しかしこれを古代人の愚かさと笑うことが、できるだろうか。

一方、異様な雰囲気に圧倒されて、有無を言わさず取り込み、飲み込まれるのを恐れて、ヨシャファトもこれに抵抗し、苦肉の策を取る。あの評判の預言者、ミカヤを招いて預言させてくれ、と言うのである。あの(悪い意味での)評判のミカヤならば、アハブの思惑通りの言葉は絶対に語るまい、という訳である。他方、アハブは、あの憎きミカヤさえ懐柔できれば、ヨシャファト等はこちらの思うがままだと目論んで、この都合の悪い、真実の預言者を、半ば脅迫して抱き込もうとする。

二人の王のメンツばかりの下らない腹の探り合いに、ミカヤも余程うんざりしていたのであろう、どうでもいいとばかり、およそ無関心の言葉を語るのであるが、ヨシャファトに責められて、ついにまことの預言者として、神の言葉を告げる。17節「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように、山に散らされている。哀れにも彼らには主人がいない」。羊の命を顧みないお前たちには、羊を飼う資格はない。「災いの預言」である。神が幸運の預言ではなく、禍のみ言葉を語ったのである。

「重傷を負って病院に担ぎ込まれる人に向かって、コレステロール値や血糖値を尋ねても無駄。まず傷を癒やすのが大事なことだ」。修羅場をくぐった医師が経験から導き出した言葉のように見えるが、そうではない。ローマ・カトリック教会の頂点に立つ教皇フランシスコが、6年前の就任直後に述べた言葉である。要は、目の前の問題をよく見て、まっすぐに受け止めることの大切さを、この譬えで語った。言葉だけではない。実践もしてきた。故郷アルゼンチンでの聖職者時代は自らスラム街に出向いてテントを張り、ミサを行った。今回の来日でも、被爆地の長崎と広島を訪れ、世界に向けて核兵器廃絶を呼び掛け、都内で東日本大震災の被災者と交流した。ある新聞はこのように論じた。口癖のように語る「周縁に生きている人々に心を開いていくようにしましょう」。「核兵器は安全保障上の脅威から私たちを守ってはくれない」「軍拡競争は無駄遣い」。しごく当たり前のことなのに、核抑止論に慣らされた耳には言葉の一つ一つが新鮮に、鋭く響く。預言者ミカヤに準えて、彼は幸いを告げるのではなく、都合の悪いことばかりを語る「災いの預言者」のようであるとも評せられる。

しかしこういう姿を見て深く思わされた。彼は「羊飼い」に徹しようとしている。東電福島第1原発事故によって、福島県から自主避難した高校生、鴨下全生(まつき)さん(17)は、このローマ教皇フランシスコと抱き合った。避難した東京の小学校でいじめに遭い、中学校では出身地を伏せたことで友人にも気持ちを明かせなかったという。誰か助けて。誰か分かって。声を潜めて願ったに違いない。救いを求めて教皇に手紙を書いたのがきっかけで、3月に謁見(えっけん)し、東京で再会した。青年は今、体験を語り、被ばくの脅威をなくそうと訴えている。痛みを抱えた、か細い声に耳をそばだててくれる人がいた。小さな声を聞き、希望を語ってくれた人がいた。羊飼いがいてくれた。それで彼は語る者となった。

心を大きく揺さぶられたり、突き動かされたりしても、人は一つの言葉で生きる道が変わることがある。イエス・キリストが赤ん坊として、飼い葉おけの中に生まれたことは、まさにそのことの象徴である。家畜の大きな鳴き声の中で、誕生され、眠られたのである。家畜の声を聞く御子である。わたしのか細い声に、じっと耳をそばだててくれる人がいる。小さな声を聞き、希望を語ってくれた人がいてくれる。ちゃんと見守る羊飼いがいてくれる。この経験を生きている中で味わうことのできる人は、幸いである。そしてそこからしか平和の道は生まれないであろう。