「神を知らずに」エフェソの信徒への手紙2章11~22節

フランスの作曲家エリック・サティが作ったピアノ曲を耳にしたことがあるだろう。有名なのは「ジムノペディ」。小品だがゆったりと親しみやすく、それでいて独特の音の世界が形作られている。この音楽家、自分の曲が売れるとか評価されるとか、まったく気にしなかったらしい。自分の音楽の世界を、自分自身で楽しむために、曲を創ったという感じである。それでも彼の創った曲が今もなお聴かれ続けられていることは、本物である証なのだろう。ところで、彼の手になる曲に「ヴェクサシオン」と題されている作品がある。何とも奇妙な曲だ。1分ほどの物憂げなフレーズを、840回ゆっくりと繰り返すのである。全て弾き終えるのに15時間ほどかかる。楽譜通りに、全曲録音したピアニストはいるのだろうか。曲名はフランス語で「嫌がらせ」の意味。単調な旋律が延々と続くため、演奏者も聴衆も嫌がらせをされた気分になりかねない。音楽界の異端児サティの手に掛かれば、嫌がらせさえも一つの芸術作品として成り立つ、ということか。
今、ネットによる「誹謗中傷」の処罰化について、議論が交わされている。「匿名」というネットの特性から、過激で極端な言葉が、瞬く間に山火事のようにあふれ出る。「炎上」というらしい。「投稿者の名前の公表」の可能性が、大臣から示唆されると、途端に、言葉の調子が下がって来るのは滑稽である。今は「嫌がらせ」の主な舞台は「ネット」だが、人間の歴史を通して、人間関係での「嫌がらせ」つまり「呪い」は、ごく当然のように行われて来たのである。「呪い」は、敵対する相手の力や生命を減ずる手段として、さまざま局面で用いられてきた。
旧約のサムエル記上に、良く知られた「ダビデとゴリアテの戦い」の記事がある。この時にダビデが敵ペリシテの百戦錬磨の武将、巨人ゴリアテを倒したことで、一躍、大方の誉を受ける。この記事の様子が、当時の戦争の実際をよく再現している。軍隊は向かい合ったらすぐに尖刃を交える訳ではない。最初に何をするか、相手にいろいろと「嫌がらせ」をする。最も多いのは、「悪口合戦」である。最初ゴリアテは、イスラエルに対してこれでもかと悪口雑言を叫ぶ。イスラエルの兵士たちは、この言葉に怖れおびえ、戦意を喪失したと記される。
これに対してまだ子どものダビデは、勇敢にも、あるいは怖いもの知らずからか、悪態を返している。どちらかというと、戦争の主な駆け引きは、長時間にわたるこの「呪いの応酬」「嫌がらせ合戦」なのである。指揮官は、この時間を使って、両軍の戦闘力を計算して、出方を決める。指揮官が賢明であって、冷静に「負け戦」の可能性を悟れば、相手方に特使を送って、和を結ぶ道を探る。世界の政治情勢を見ていると、現代も同じようなことを国同士で行っているのであるが。
さて、今日の聖書個所は、エフェソの信徒への手紙である。パウロの手紙をはじめ新約の書簡文学は、当時の教会で起きていた現実問題を、知ることができる上で、貴重である。今日の個所で、その問題とは、14節に「隔ての壁」という言葉が見えることから、教会に集う人々の間に、仲間割れや派閥があって、どうもしっくりいっていない状況が伝わって来る。牧師就任式で、司式者は式文で、教会員に勧告する。「あなたがたは紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことがないように」。
ただしこの「隔ての壁」という言葉は、直訳すれば「間を隔てる、隔壁」という「隔てる」という用語を二回繰り返していることから、教会の人間関係が、「隔て」つまりよそよそしく、ぎすぎすした関係が、かなり深刻なものになっていたということなのだろう。人と人との間に「隔ての隔壁」が置かれている。これは初代教会のみならず、人間が共に生きるところでは、どこでも起こっている事態であるだろう。そしてこの原因となるものは、やはり「言葉」なのである。ユダヤ人と異邦人(ヘレニズムの人々)、文化が違う、価値観が違う、生活のスタイルが違う、いろいろ違いがあるだろうが、その違いを「豊かさ」とせずに、「違和感」として感じてしまうのであり、それが時として言葉となって、口からあふれ出てしまうのである。
ユダヤ人は選民としての優越感から異邦人に言う、「割礼ない者、律法も弁えぬ無知蒙昧の輩、哀れな神なき者」。ギリシャ人も負けじと言い返す「ギリシャ語も喋れぬ野蛮人が」。言葉は人と人とをつなぐ一番の紐帯である。その絆たるべき言葉によって、人と人とが分断され、遠く引きはがされる。なぜ人は、そんなに、誰かに悪口を言いたがる、言ってしまうのか。
世に他人の悪口が途絶えたことはない。心理学者のフロイトはこう説明する。「他人に対する非難は十中八九、その人間の秘められた願望か、その人間が自分自身に対して非難したい事柄を物語るものである」。つまり、「あいつはずるいやつだ」と言う人は自分がずるをしたいのか、実際、自分がずるいのを隠したいがためにそう言うのか、どちらかだという。そして肝心なのは「自分では自分がそうであることに、さらさら気づかないでいる」ことである。「悪口は自分の願望の表れ、そして自分への非難」、だから呪いは自分へのブーメランなのである。自分が自分を赦せないのである。「人を呪わば穴二つ」。それで人間と人間の関係がゆがみ、破綻していく、本当は困るのは当人で、何とも皮肉なものである。こういう人間と人間とが共に生きて行くのに、よい方策があるのだろうか。
宮大工、西岡常一氏の家に伝わる「法隆寺宮大工口伝」には、次のような文言が伝えられているという。「塔組みは 木組み/木組みは 木のくせ組み/木のくせ組は 人組み/人組みは 人の心組み」この伝承を小原二郎氏は「法隆寺を支えた木」の中でこう敷衍する。「こういう部材を集めて全体を一つにまとめあげることは、至難の業であったでしょう。それを見事にやってのけ、統一された美しさと力強さ、さらに柔らかさまでもかもし出しているのには、ただ敬服のほかありません。これは大勢の大工の心が一つになっていたからです。おそらく、棟梁の統率力だけでなく、お互いの心が通じ合い結び合うような何かがあったからなのでしょう」。そのままではひとつになれない人間と人間がいる。分かっちゃいるけど、「悪口」が口に出る人間同士である。「心を通じ合い結び合うような何か」とは、どういうものだろうか。
17節「キリストはお出でになり、遠く離れているあなたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました」。わたしとあなたの間に、キリストは来られた。平和の福音の絆で、私たちを結ばれる、というのである。どうしてそんなことが、16節「十字架を通して、十字架によって敵意を滅ぼされた」からというのである。十字架に付けられた主イエスに、人間のありとあらゆる、すべての「嫌がらせ」も「悪口」も、「非難」も投げつけられたのである。「神の子なら自分を救え」、「自分を救えないキリスト」、「今、十字架から降りてきたら信じよう」。主はその誹謗中傷をそのまま受け止められ、担われたのである。だからもうそれ以上、いいではないか。自分自身を裁くのを止めたらいい。
サティの「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」、3年前、津山市で小学生から80代まで50人余の奏者が、この曲をリレー演奏したという。作曲家の「嫌がらせ」にもかかわらず、非常に長時間の演奏を成し遂げた時には、皆の達成感が広がり、演奏者はじめ、そこにいる人々の絆が強まったそうだ。これも作者の狙いか。この先も長く続くとみられるウイルスとの闘い。「嫌がらせ」を遠のけるのは、人々の間に訪れる「神からのもの」を、それぞれが真っすぐに、心に受け止めることであろう。