祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書15章16~32節

あるミッションスクールのチャプレンがこう語っている。「私が勤めている学校で、よくボランティア活動に生徒さんを勧誘すると、その日はやる気になって帰るのに、翌日には、親に『自分のことも満足にできないのに、人のお世話なんかあんたにできるわけない』と言われました、と言って、断りに来る子がいたりします。子どものやる気を削いでいる親御さんの言葉にも残念ですが、それと同時に「まず自分のことができてから」と言うけれども、「自分の事を十分にできる人」なんてどれくらいいるだろうか? と思ってしまいます。医者でも散髪屋や美容師でも、人が自分の目や手では届かない所をお世話するのが仕事です」。
かつて同じ職場に身を置いていた者として、私も同じような経験をしたことがある。「自分のことも満足にできないのに」。この十数年間で、この国に「自己責任論」が声高に語られるようになった。元々それは「金融投資」の領域の考え方で、株式や金融商品を売買する際に、もし損失が出ても、それを他人の所為にすることはできないよ、という限定的な考え方だった。ところがそれが人生や生活全般にまで、適用できるかのような乱暴な決めつけの論理にまで、拡大されたのである。
現在、世界がウイルス禍に悩まされているが、「感染者」に対し殊更に「自己責任」を問う傾向があるのは、見当はずれだろう。すぐに「軽率な行動」が批判されるが、それも相対的な事柄で、完全密閉された無菌室で生活するのでなければ、「安全」は保障できないであろう。相手は目に見えないウイルスで、しかも新型である。これからどう展開するか、確かなことを的確に言いうる人はいない。
主イエスが、十字架に付けられた時に、そこに居合わせた人々からひどい罵倒の言葉、たくさんの言葉の暴力を投げつけられたことに、大きな痛みを覚える。なぜならそのひとつ一つは、みな、今もここそこで耳にする「誹謗中傷」そのものであるからだ。今日の聖書個所で、31節「他人は救ったのに、自分は救えない、メシア、イスラエルの王」、という、祭司長、律法学者たちが投げつけた「誹謗中傷」が記されている。十字架に釘付けにされて、苦痛にのたうち喘ぐ者に対して、どうにもできないことを嘲笑う言葉である。確かに人間は、悲惨の極みの中にある者でも、容赦なく鞭打てる残虐さを、どこかに隠し持っているのである。この「祭司長や律法学者」と私たちは、別物の人間だと澄ましていられるだろうか。
ある思想家が、「人間は弱いというが、実は他人の不幸を、見過ごしにできるほど強いのである」(ルソー)と語った。主イエスを前にして、そこで語られる言葉は、それがたとえ「誹謗中傷」であったとしても、そこに人間の真実な姿が描き出されるのである。「主イエスについて語ることは、自分自身を語ることだ」、と言われる。心理学の世界で、「悪口」や「嫌がらせ」は、実はその人の自分自身の生き方の告白であるか、願望である、とされる。「あの人は嫌な奴だ」という時、言った人は内心、「自分を嫌な人間」と思っているか、あるいは、「そういう人のように生きたい」、と思っているかだというのである。
「他人は救ったのに、自分自身は救えない」、この言葉は「誹謗中傷」であることを超えて、人生というものの実情を切り取っているものではないか。つまり、「救う」などと大それたことはいざ知らず、人間は誰か他者の必要や求めを見て取り、それを支え、満たす生き方をする。確かに自分勝手で独りよがりのところはあるにしても、そして、おせっかいや中途半端になってしまうことはあっても、他の人のことをどこか気遣って生きているところがある。「自分が一番かわいい」とはいうものの、「自分さえよければ」と常に計算ずくで行動するのは、いささか気づまりで楽しくない。やはり自分以外の人とも、共に生きるときに、生きる張り合いや喜びが生まれて来るものだろう。「喜ばれる喜び」にまさる喜びはない。
ところがこと自分自身のことになると、また話が違ってくる。自分自身で自分を支えようとすると、いささか心もとないのである。金銭やモノで対処することはできる。しかしそれだけで解決できる事柄はたかが知れている。例えば「病気」や「認知症」になった時には、自分の力でどれ程のことができるのだろうか。「おひとりさま」の生き方が気楽でも、「誰のお世話にもなりたくない」と言っても、「他人の迷惑になりたくなく」ても、そうは問屋が卸さないのが、私たちの人生であろう。この「自分は救えない」とは、私たちの生の真実をそのまま映し出しているのである。誰もこういう人生の歩みに、無縁な人はいない。「自分は救えない」のである。
こう文章に出会った。英語で「セルフ・レスポンシビリティー」という言い方は普通しません。「レスポンシビリティー」だけで十分だからです。(苅谷剛彦)。自己責任などと言う必要はない。責任とは相手に応答(レスポンド)できること。何かを委(まか)されているとの自覚をもって処すること。(折々の言葉4月19日付)。
「自己責任」とは、自分のことをすべて自分の力と能力で、こなせることではない。一人前というが、それは誰の力も助けも借りずに、自分一人だけで生きてい行けることではない。土台、人間にはそんなことは不可能である。他者に向かって何らかの応答すること、それが人間としての「責任」であるというのである。ここにはキリスト教の信仰論が基本に据えられている。人は「神のかたち」に創造された。それは「神との応答関係」にあると言う意味である。人は神に対して、何かすることのできる存在ではない。ただ賛美によって、祈りによって応答するのみである。しかしそこにこそ人間の特筆があるだろう。
「他人は救ったのに、自分自身は救えない、メシア」という言葉こそ、主イエスの公生涯をそのままに語る、いわば「信仰告白」に類するものと言っても過言ではないだろう。まことの人、主イエスは徹底して、このような生き方をなされたのである。「メシア」、救い主とは何者なのか、自分の救いではなく、他の者の救いのために生きる者、そしてその方に出会って、私たちは本当に何が人間らしい生き方なのか、喜びの生き方なのか、人生に何を求めたらいいのかを知ったのである。自分の救いは、自分からは来ない。自分で自分を救うことはできない。ただ神の憐れみによって生かされる。それを主イエスは、徹頭徹尾、とことんまで、十字架の死に至るまで、歩みぬかれたのである。