「見よ、ここにいる」イザヤ書52章1~10節

待降節第1主日、アドベントの最初の日曜日を迎えた。アドベント・クランツに最初の光が点された。今日から日曜日ごとに、光が一本ずつ増えていき、灯かりが増して行く。そしてクリスマス礼拝においては4本のローソクが明るく輝く。クリスマスは、その日だけのお祝い、お祭りではなく、長い期間をかけて覚えられ、結果だけでなく、その途上で祝われるものなのである。ドイツのアドヴェント・カレンダーは、クリスマスまでの一日毎に窓があり、それを開けるとチョコレートが入っている。毎日ひとつづつ食べて、おいしく楽しくクリスマスを待つ。待誕節を通して、神の救いの約束を覚え、待ち望む「心」高めていくのである。今は12月だから、一年の内で最も昼の時間の短い季節である。そして最も昼の短い冬至に、私たちはクリスマスを迎える。季節は、段々に闇の深まる時をたどり、他方アドベント・クランツの光が少しずつ増えていく、闇と光、これもまた、聖書の証しする神の救いの物語を、目に見える形に表したものである。

今日はイザヤ書52章から話をする。クリスマスは、長い期間をかけて覚えられ、祝われると申し上げた。それを聖書に即して言えば、旧約から主イエスのご降誕に至る長い長いイスラエルの歴史を振り返り、思い起こすことでもある。神は決して手をこまねいて、何も救いの出来事を起こさなかった訳ではない。絶えず神の民に呼びかけ、救いの計画を立て、みわざを行ってこられたのである。今日のみ言葉を語っている預言者は、「第二イザヤ」と便宜的に名付けられている無名の預言者である。バビロン捕囚というイスラエルの苦難、苦しみと嘆きの中で、人々に神の言葉を語り、大きな慰めを表した人である。生憎、名前が伝えられていない。結局残るのは、人の名前、つまり人間の栄誉や人格、業績は、時の流れのかなたに追いやられ、忘れられる。残るものがあるとすれば、ただ「神の言葉」だけである。しかし、人がそのみ言葉を生きたなら、その人の生命も、み言葉と共に永遠に生きる、ということである。

ここで預言者は、イスラエルの歩み、歴史を、本当に短く、これ以上簡単にはできないくらいに、簡潔にまとめる。イスラエルの歩みとは何か。4節「引用」。かつてエジプトで、自分たちの先祖が奴隷だったこと。労役の重さに呻きと嘆きの声を上げたこと。時代は下り、アッシリア人よって、北イスラエル、国の半分が滅亡し奪われ、人々はアッシリアへと連れ去られ、歴史の舞台から彼らは姿を消す。アッシリア捕囚、「イスラエルの失われた10部族」と評される出来事があった。さらに預言者は問う。「そして今、ここで起こっていることは何か」。「バビロン捕囚」である。北イスラエルの滅亡後、二百年足らずで、南イスラエル、ユダの国もまたバビロニアによって滅ぼされ、神の栄光の町、エルサレムはすべて破壊され、住民は虜囚としてバビロンに追放された。一体、イスラエルの歴史とは何なのか。神の民の歩みとは何だったのか、無名の預言者はそう問うのである。

神を知らぬ人、神に無関心な人間たち、神に逆らう者たちならば、神から罰を受けてひどい目に会う、滅ぼされる、というのなら一応の筋は通っているかもしれぬ。(但し、そんな神は願い下げであるが)。イスラエルは他ならぬ神から選ばれた民の国、神が慈しみ、愛する人間たちである。その我々が、長い歴史を通して繰り返し経験したことは何か。この苦難は何か。なぜ神はこれほどまでに自分たちを痛めつけるのか、なぜ自分たちはこんなに苦しまねばならないのか。「それはあなた方の罪のゆえだ」と言うかもしれない。「自己責任」、それなら「神の救い」はどこにあるのか。この日本列島は、世界の全ての自然災害の10%を担保していると言われる。「地震雷火事おやじ」の災厄に繰り返し見舞われる、世界でも稀有な国である。だから、神から嫌われ、呪われている国なのだ、と言ったらどうか。「馬鹿なことを言うな」、と厳しいお叱りを受けるであろう。

しかしイスラエルの一番の問題は何か、「神に救いはどこにある」と嘆きながらも神の救いを求め、神のみこころを願い求めるなら、それはまさしく信仰の最も純粋で、まっすぐな姿である。それでも自分の置かれた場所に、残された恵み、そっと備えられた神の贈り物を探すなら、そこから事態は何ほどかの変化がもたらされるであろう。ところが捕囚のイスラエル、今は捕らわれの民の心はどうなっているか。今日のテキストに、同じ言葉が二回繰り返される。「ただ同然」、「ただ同然で売られ、ただ同然で奪い去られ」、ただ同然とは、価値がない、意味がない、存在する必要がない、不要、良い所はない、無駄ということである。聖書の民は、自分たちがまったく 何の価値もなく、意味もなく、もはや余計な者として自らを受け止めているのである。確かに、そうだろう、故郷を奪われ、家族を奪われ、神殿を奪われ、それまでの財産も生計をも奪われたのである。「ただ同然、ごみくず同然」、今、預言者はこのように捨て鉢のように語る人々の目の、前に立っているのである。

こんなゲームがあるそうだ。「YES,AND」。ある提案に「でもね」と否定するときと「いいねぇ」と肯定するときの違いを体感するものだ。2人一組でチームを作る。初めは、否定「でもね」から。こんな感じだ。Aさんが、理由をつけて提案する。「今日は天気もいいしみんなでバーベキューしない」。Bさんが否定する。「疲れているから嫌だよ」「おいしいもの食べると元気になるよ」「寝てたほうがいいよ」「みんなと一緒だと元気になるよ」「誰とも話したくないよ」とこれを繰り返す。だんだん双方が疲れてやる気がなくなる。次は「いいねぇ」だ。今度は新たな提案を付け加える。バーベキューの提案に「いいねぇ、どこでしよう」。「いいねぇ、仮装してやろう」「いいねぇ○○○」と繰り返す。プラスの空気があふれ、発想がどんどん広がる。恵みよって生きる、恵みを数えるとは、「YES,AND」という生きる姿勢のことである。

本当は「ただより高い物はない」のである。確かに「ただ」のものは、それなりの理由がある。一言で言えば「難有」なのである。ただで得したと思っても、実は壊れていてやっかいもので、直すのにえらく手間と暇と金が余計にかかったりする。それでも折角手に入れたのだから、と捨てに捨てられない。しかしそのようであることを分かって、あえてその「ただ同然」に目を向け、手を伸ばしてくださる。何と「有難」いことであろうか、「難有」を逆さに読めば「有難」である。難有りを、有難いと手を伸ばされる、引き受ける、これこそ神なのである。6節「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知る、『見よ、ここにおられる』ことを知るようになる」。「名前」は力である、そして「存在」は支えである。苦難の中に、混迷の中に、ただ同然というごみの山の中に、「大きく難有り」に、「有難い」を創り出し、生命を吹き込むのか、聖書の神なのである。

こんな文章を読んだ。もしあなたが劇団のリーダーだったら、どうするだろう。公演が目前に迫っている時、自宅や稽古場、さらに大道具までもが火事で灰になったら◆神戸の老舗劇団「道化座」を率いていた須永克彦さんがその立場だった。亡くなって1カ月。読み返した記事でもっとも印象深かったのが阪神・淡路大震災に遭った直後の話である。須永さんはどうしたか◆何もかもを失い、公演の主催者に無理だと伝えようとした。するとこう言われた。「須永さんも団員さんも元気やないですか。何でできませんのん。ぜひやってください」。しおれる心にしみこむ一言だった◆徹夜の準備を重ねて、予定通りに公演を終えた。後日、取材に対して須永さんは答えている。建物はなくても、人さえいたら演劇は続けられる。「芝居の心は焼けてなかった」。演劇人らしい実にいい言葉である◆あの日、被災地にいた人は自分の役割は何だろうと考えたように思う。化粧品店の人は、疲れた女性に口紅をと話していた。だって、それだけでちょっと元気になるのやから、と。そして演劇人は舞台に立とうとした。誰かの心をぬくめられたら、と◆震災25年が近づく。焼けなかったものは何か、考えるのもいい。須永さんの残した言葉が耳元でそうささやく。

アドヴェントを迎えた。暗闇の季節である。そして暗闇の中にこそ、神の光は点されるのである。