「見よ、神の子羊」ヨハネによる福音書1章29節~34節

「ローマの休日」という言葉を聴くと、皆、あの有名な映画のことを思い起こすであろう。若きオードリー・ヘプバーンが主演し「大人の童話」にも譬えられた。古い歴史の町。ローマの名所旧跡が隈なく映し出され、本当の主役は、実は「ローマの町」そのものだとも評された。映画の中で、オードリー・ヘプバーンが階段に腰をかけ、ジェラート(アイスクリーム)を食べる、という実に絵になる風景は、世界的な観光名所「スペイン階段」で撮影された。旅行者がその情景をまねるのも、そこでの名物となっていた。

そんな名画のワンシーンを、観光客が追体験することができなくなった。飲食だけでなく座ることもローマ市が禁止したからだ。これまで腰をかける観光客でごった返していた135段の階段は、広場からすっきりと見渡せるようになった。警察官と警備スタッフが観光客が座らないか、目を光らせる。記念撮影をしようと数秒座っただけでもすぐに警笛が鳴り響く。立ち上がるよう警告された観光客は、ばつが悪そうに移動した。今では階段を汚すなど悪質な場合には、最大400ユーロ(約4万8千円)の罰金が命じられる、という。

「ローマの休日」という言葉は、この有名な映画の題名が発祥ではない。「目の前に剣闘士が横たわるのを見る/競技場は彼の周りに揺れ動き、彼は息絶える/ローマの休日のために屠(ほふ)られる」。英国の詩人バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」の一節である。古代ローマ市民が休日に競技場で奴隷の死闘を見て楽しむ日常を描いている。この詩から、英語で「ローマン・ホリデー(ローマの休日)」とは「他人の犠牲を楽しむ娯楽」のことをいう。ドイツ語ではシャーデンフロイデといい、ナチスによるユダヤ人のホロコーストも想起させる。現代はネット空間がローマの競技場か。「正義を振りかざして誰かを叩(たた)きたい人が増えている」とも指摘されている。

しばらくヨハネ福音書を取り上げて、話をする。「ナザレのイエスとは誰か」、初代教会に問われた大きな課題である。教会の外からも内からも、この問いを問いかけられて、教会は、主イエスという方が、どんな方であるのかを表明する必要に迫られた。強盗どもと共に十字架に釘付けられて、血を流し、亡くなられたあの方を、何者だというのか。十字架に付けられるというのは、国家への反逆者、あるいは神に呪われた者への報いである。それがどうして「キリスト」なのか。この問いは今も古くて新しい問いである。神の救いはどのようにしてなされるのか、その答えでもある。

初代教会が答えたその答えのひとつが、今日のテキストで語られる。「見よ、神の子羊」という象徴的言辞である。主イエスは「神の子羊」であるという。聖書の世界の風景に一番馴染みの事物、かの「ローマの休日」で最もローマの町らしさを最も醸し出している「スペイン階段」のごとき事物は、やはり「羊の群れ」を置いて他にないだろう。羊が群れをなしてゆったりと草を食んでいる。そこに生まれたばかりの小さな子羊も、安心して入り交じっている。これこそ聖書の人々が心に描いた、神の愛と平和そのもののイメージがあるといって良い。

羊は偶蹄類といって爪が二つに分かれている。羊の蹄は黄金の蹄と称されるが、その理由は、羊を野草地や山に放すと、牧草地へと代わり、やがて肥沃な土地になっていくからである。羊がきれいに草を食べたあとに、牧草の種を蒔き、その上を羊の蹄が適度な力で踏むことで種が植え付けられていく。また羊が歩くことによって、糞を撒き肥料を与えることにもなる。古の大草原を、羊を遊牧して歩いた跡が道になったとも言われている。まさしくイスラエル・ユダヤは、羊あっての物種なのである。羊によって自分たちの命が支えられ、豊かさと繁栄を恵まれている。まさに自分たちは、神の牧草地に憩い、寛ぎ、生かされる羊の群れである、というのが、聖書の人々の自己理解だったわけである。

ところが羊、生まれたばかりの子羊はもう一つの大切な側面を持っている。人々の罪の身代わりとして、神への犠牲として捧げられる動物なのである。聖書の人々にとって、家畜は安易に殺して肉として食べるためのものではない。人間の生命は、家畜によって支えられている。毛を刈り織物を織り、乳を搾り、チーズや乳製品を作る。糞も燃料として大切に利用する。だから屠って食べることはほとんどしない。家畜を殺すのは極めて例外的なのである。自分たちの生命を支える大切な存在だからこそ、自分の持てる一番良いものとして、神に捧げるのである。羊が屠られる時の様子がこのように語られている。

「山羊は往生際が悪いといいますか抵抗してかなり激しく暴れるのに対し、羊はあきらめてしまっているのか運命に従順であろうとするのか、大人し過ぎて、断末魔に一言ベーと鳴き、とても申し訳なく感じてしまいます。屠畜場へ搬入するときも隣で豚が神経質に金切り声を上げているのに、羊は逆らわずに通路を自ら進んでいくのです。これは古来西欧の宗教において羊が生贄として神に奉げられ、神聖視された理由ではないかとおもうのです」。ある牧羊者の言葉である。

ともあれ「神の子羊」という表徴は、聖書の人々にとって、日常的な馴染み深い風景の一コマだったろう。ところがヨハネはここにひとつの言葉を添えている、しかも二回も繰り返して。それは「わたしは知らなかった」。「思ってもみなかった」という言葉である。あのヨハネでさえも「うかつだった」「何もわかってなかった」と告白するのである。「あきらめているかのように運命に従順に、逆らわずに通路を自ら進んでいく」、神に捧げられる犠牲の子羊のような姿。抗わず逆らうことなく、従順に自分に託された運命や使命を、それがどれほど苦しみの道であっても、じっと担い続ける。なぜ救い主が、キリストが、そのような生き方をされるのか、分かっていなかった、と。

バイロンの歌にある「ローマの休日」の人々の有様がどのようであったか、奴隷の剣闘士が命を懸けて戦う。敗れた方は剣に刺し貫かれ、まるで屠られた犠牲の子羊のように、競技場に倒れる。それを見て観衆は熱狂する。歓喜に酔いしれる。この民衆の姿は、「十字架に付けよ」「今、十字架から降りて見よ」という罵りの声に重っている。人は、「命あっての物種」「命ほど大切なものはない」というけれども、この世の容易く命が奪われる現実を目の前にして、熱狂し、歓呼するのである。「わたしはこの方を知らなかった」。十字架に付けられた主の姿を見ても、何も分かっていないのである。

中村哲氏が、生涯の最後に西日本新聞に送った手記にはこう記されている。「私たちは余り簡単に、平和と戦争を語りすぎた。戦までして守らねばならぬものとは何か。過去、それは経済的動機であったり、不遜な優越感や過剰な防衛心であった。分を超えた人の欲望や不安が束となり、集団として動き始めると、手に負えない。狂気でさえ常態として肯定される。だから、繁栄と戦争、豊かさと不安が、同居するのだ。そして、「繁栄」とは常に弱者の犠牲の上に築かれてきた。(ローマの休日そのものである)。

だが、剣で立つ者は剣で倒される。他の命をいたわらぬ者は、己の命も粗末にする。

日本で年間3万5000人の自殺、増え続ける殺人事件は、自分に向けた刃なのかも知れない。諸般の事情を眺めると、われわれはまぎれもなくひとつの時代の終えんを生きている。

今私たちが問うべきは、「何をすべきか」ではなく、「何をすべきでないか」である。破局への不安に駆られて、お手軽な享楽への逃避や、一見権威ある声に欺かれてはならない。人として最低限、何を守り、何を守らなくて良いのか、何を失い、何を失うべきでないのか、静かに問うべき時だと思われる。敵は自分の内にある。これが、20年の結論である。

「ローマの休日」を生きている私たちである。しかし、主イエスは、「神の休日」を私たちに指し示す。「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に自分の仕事を離れ、安息なさった」。神の安息の中で、人も自分の手のわざを手放し、安息する。神の牧場の中に憩う子羊のように。「何をすべきでないか」、深く思う時が必要である。