祝クリスマス。こうして礼拝堂に共に集い、皆でクリスマスをお祝いする幸いを思い、深く感謝したい。
この12月に、日本初の民間人として、ひとりの実業家が国際宇宙ステーションへと飛び立ち、12日ほど滞在するというニュースが伝えられた。民間人が宇宙へ旅行できる時代の幕開けとも言えるが、撮影を担当する日本人スタッフも一緒に行き、2人合わせて経費が100億円以上かかったとみられている。いささかお高い旅行である。「ついに夢が叶うという気持ちでいっぱいです」とご本人はご満悦に語っている。今年は世界のいわゆる「大富豪」たちの“宇宙旅行”ラッシュとなっているそうで、何人もの金持ちが、宇宙へと旅立っている、という。地上の楽しみはみな味わい尽くしたから、天上の楽しみを、というのだろうか。ただ天国は、いずれすべての人が、ひとり残らず行くことになる、しかもただで。私たちはその時のお楽しみに、残しておくべきか。
23年前、宇宙飛行士の向井千秋氏が、スペースシャトルの機中から、ひとつの短歌の「上の句」を詠んだ。「宙返り 何度もできる 無重力」。この続きをどうぞ、と募集したら、全国から14万を超える下の句が寄せられたという。後に最優秀作に選ばれた小学4年生の作品は「水のまりつき できたらいいな」。すごい空想の広がりに感心させられる。また日頃、親御さんの介護にあたる50代の女性は「乗せてあげたい 寝たきりの父」と応じたという。胸が温められるような、深い思いやりである。他にも「ラッコになったり 天女になったり」と皆、それぞれ奔放に夢を膨らませているところが楽しい。想像するしかない宇宙、まだ未知の体験を、いろいろ心の中に思い描いて、考えてみる、人間の感覚の大きさ、すごさを感じさせられる。但し、実際に無重力の世界を味わっているご本人、向井さん自作の下の句は「着地できない このもどかしさ」。無重力とは楽しくもあり、不便でもあるらしいが、それも体験者だけが肌で知る感覚に違いない。
宇宙に行くと、地上では想像もできない、全く不可能なことも可能となる。逆に地上ではできることができなくなる。今のところ多額のお金はかかるが、宇宙はスーパーマンのような、特別な人間だけが行ける場所ではなくなった。そして宇宙は地上と同じく、現実の場所なのだ。そして地上とは全く反対のことが、真逆のことが起こる場所でもある。
今日は旧約の有名箇所、預言者であり最後の士師であったサムエルの母が、唱えたとされる祈りである。「ハンナの祈り」と呼ばれている。聖書には、女性が詠う祈り、賛美の歌が多く収められている。出エジプトの立役者モーセの姉、ミリアムが歌った「海の歌」、敵の軍勢を前に、怖じ怖れるバラクを叱咤激励し、イスラエルを勝利に導いたイスラエルの母と評されたデボラの詠った歌。そして最も有名な、クリスマス毎に必ず読まれ、歌われる主イエスの母マリアの歌った「マニフィカート」、どれもスケールの大きな、情感あふれる美しい言葉が連ねられた詩である。特に「ハンナの祈り」は、マリアの賛歌「マニフィカート」と雰囲気が似ているので、クリスマス前には、必ず読まれる聖書個所である。
両者の歌の一番の共通点は、どちらも高らかな喜びに満ちていることである。今日のテキストの1節「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う」。「角を高く上げる」、ハンナという女性は鬼のように怖い人で、実際に頭に角が生えていたということではない。家畜が互いに争う時、角を突き合わせて力比べをするように、「角」とは、「力」や「強さ」の比喩である。また次の行の「口を大きく」という表現もそうである。「高らかにほめ歌う」ということではあるが、「遠慮せず、大胆に、恐れることなく、何者にも気兼ねすることない」という時に、人は口を大きく開けるのである。目の前の相手に、警戒や怖れ、後ろめたさを覚える時には、人間は口をぎゅっと閉じるものである。
なぜそのようにハンナは、自分のことを「力」に満ちて、「大胆に」ふるまえるのか。それはひとえに「主にあって」(二度繰り返されていることに注意)、がその理由である。主にある時に、つまり主、神とつながりを持つ時に、人間は、どんな人であろうと、どれ程弱く、小さくても、力を与えられ、強くされ、大胆さを付与されるのである。なぜそんなことが起こるのか、ハンナは4節以下に、神のなされるみわざとはどのようなものか、神はどのような働きをされるのか、他の誰にもまして、明らかに高らかに歌うのである。「勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる」。
神にあっては、「よろめく者が力を得」、「飢えている者が、満腹し」、「弱い者を立ち上がらせてくださる」というのである。神は、すべての人間のほこりを覆される、人間の得意を打ち砕かれる、人間の高ぶる目と心をたたき壊される。思い上がり、勝ち誇り、己の力、権力、莫大な富を誇示する輩は多い。弱くされた人、貧しい人、寄る辺ない人を蔑み、自己責任の一語でもって、処理し始末しようとする人たちは確かにいる。抑圧や不正に抗議し、抵抗する自国民に向かって、砲弾を投げつける軍隊がある。大金を湯水のように使って、宇宙に遊びに行く者もある。しかし宇宙に行っても、「着地できない このもどかしさ」こそが人間の現実なのである。思い上がれば、他人をさげすめば、地に足はつかない。いずれはどんな偉い人も、強い人も、大きな業績を上げた人も、皆、あえなく地に横たわるのである。
こんな文章を読んだ。ある日、中学生の息子からママのお手伝いをしてアルバイトをしたいと相談を受けた。なぜお小遣いが欲しいのか尋ねると、「近所のワンちゃんたちにおやつを買ってあげたい」という。お家があるワンちゃんだから、おやつは家族からもらっているのでは? と話すと、「保護犬(捨てられ、もう少しで殺される)だったから、たくさん幸せになってほしいんだ」と答えた。保護されるまでの複雑な環境を知ったからだと、なんとも心が温かくなる言葉が返ってきた。子どもらしい、純粋すぎる考え方で別の意味で心配にもなるが、頑張ってためたお小遣いを自分のために使うのではなく、他者の喜びのために使うのは、そうそうできることではない。不器用ながらも息子のそんな純粋なところに触れると、大人になり忘れかけていた大切なことを思い出させてくれる。
「保護犬(捨てられ、もう少しで殺される)だったから、たくさん幸せになってほしいんだ」と少年は言う。「宿命」とか「仕方ない」「世の中こんなもの」とか世知で片付けてしまわない、「捨てられ、殺されそうになったのだから、もっと幸せになっていい」と真逆に発想し、自分にできることを考える、心の広がりと深さを思う。
主イエスは神の独り子、神のかたちであったが、それを全て投げ捨て、ひとりの人間としてこの世に生まれられた。大きな力を自由に用いて、自分勝手にふるまえる、神の如くになりたいと思う人間は、ここかしこにたくさんいるだろう。しかし、神は、不自由な人となることを欲し、ナザレの人、マリアとヨセフの子として、この世にお生まれになった。それも最も低い所、飼い葉桶の中に生まれたのである。そして人々の罪を担い、十字架に血を流し、死んで行かれた。人間の考える全く逆の事柄の中に、神はその真実を示された。そして最も低い所、地に横たわるところから、神の復活の出来事は起こされるのである。「人は力によって勝つのではない」、ハンナがそのたくましい歌で歌いあげたように、私たちはただ神の愛によって、砕かれ、打ち負かされるのである。この世の人の思惑やたくらみを、神は見事にひっくり返される、そこからまことの力が放たれるのである。