師走も半ばを過ぎたこの頃になると、「来年のことを言うと、鬼が笑う」という諺がしばしば口にされる。「明日何が起こるかわからないのに、来年のことなどわかるはずはない。将来のことは予測しがたいから、あれこれ言ってもはじまらない」という意味合いの言葉だとされる。ではなぜ「鬼が笑う」のかと言えば、「鬼」とは神的な精霊のような存在で、人間を超えた能力を持つとされたからである。一寸先も分からぬ人間風情に、来年起こることなど、分かるはずもないのに、さも知ったかぶりにあれこれ語ることの滑稽さ、愚かしさを教えるものとされる。
しかしこの諺の謂れについて、このような伝承も伝えられているという。「むかし、益城町(熊本県)の山の中にあった福田寺というお寺に、弟子入りにきた鬼がいたそうな。新しいお堂を建てるのに、鬼は人一倍頑張ってくれたのだが、みんなに振る舞われただご汁(ほうとう)をもの凄い勢いでたくさん食べてしまう。皆はおかわりしたくてもできない。他のお坊さんたちが知恵を絞り、切った竹の棒をだご汁に浮かべた。竹を除けながらだとゆっくり食べるだろうと考えたのである。しかし、鬼は竹ごとばりばりとだご汁を食べてしまいました。鬼は硬い竹を噛んでしまったので、歯が折れてしまい、『大好きなだご汁が食べられなくなる』と泣き出した。和尚さんが、『来年になったらまた歯は生えてくる』と慰めると、鬼は喜んで笑ったそうな」。
「来年のことを言うと、鬼が笑う」、確かに「一寸先は闇」というのは、真理ではあるだろうが、「一歩先は光」という考えもまた、真実ではないのだろうか。何が起こるか分からない未来であるが、悲観的に、暗い見通しばかり思い描いて、悶々と過ごすのでは、生きていて楽しくないだろう。やはり未来に大仰なものではなく、小さくても何らかの希望を見て歩むことが、生きる張り合いというものであろう。但し、希望はひとりでにはやって来るものではないから、闇の中に、希望の黎明を見ようとする能力、希望のつくり方、見出し方を養うのも、大切な人生の学びだろうと思う。
さて、今日の聖書の個所は、「ザカリアの預言」と題された個所である。ザカリアはバプテスマのヨハネの父親である。母親のエリサベツと共に、非常に高齢であったと伝えられる。神殿の祭司であった彼は、神前に香を焚く、お務めの最中に、御使いから、子どもが誕生するとのお告げを受ける。ところが彼はそのお告げを信じなかったので、口が利けなくなる。
このザカリアの物語は、旧約のよく知られたある物語が、下敷きにされている。創世記12章以下の「アブラハム物語」の中で、ある時、アブラハムのもとに御使いが訪れ、子どもイサクの誕生を予言する。ところが妻のサラは、このお告げを信じず、心の中で密かに「笑う」のである。夫のヨセフもおそらく同じ思いであったあろう。人間は、自分の見たいものしか見ようとしない。神のみわざ、そのご計画を告げ知らされても、私たちは信じることができないのである。結局、自分の物差しで、人生のすべて、世界のすべてのことを、量ろうとする。
ゼカリヤもまた、子どもの誕生のお告げを信じられなかった。それでヨハネが誕生するまで、口が利けなくなってしまった。信じられないと口が利けなくなる、つまり「不信」が「沈黙」を生むという事柄が語られていることは、興味深い。私たちの関係やつながりは、さまざまな方法によるコミュニケーションによって成り立っている。それが失われた時に、関係自体も破綻するのである。「口が利けない」とは、言語機能を喪失したという表面的意味以上に、相互関係を取り結ぶ手段や方法を、全く欠いてしまっていることを意味するであろう。そして現代、人間関係をはじめ、国と国との関係、人種、民族間の対立や不和の問題は、すべてコミュニケーションの破綻によって引き起こされており、その根には、深刻な「不信」が横たわっていると言えるだろう。「不信」によって、相互を繋ぐ、共なる「ことば」が失われてしまっているのである。
ゼカリアは、ヨハネが誕生するまで言葉を失う。そして約束の子どもが生まれた時に、彼に「ことば」、神の言葉が与えられ、その言葉によって、「不信」が打ち砕かれ、再び語ることを取り戻すのである。私たちのコミュニケーションの回復もまた、人間の言葉のやりとりや駆け引きに留まらず、「不信」によって閉ざされたコミュニケーションに風穴を開けて入り込んでくる神の言葉に、相互に耳を傾ける姿勢が必要であろう。
この時のゼカリアの姿は、ペンテコステの日に、頭の上に炎のように聖霊が降り、「異なる言葉」を語り出した弟子たちの姿に重なっている。弟子たちもまた、主イエスが十字架で亡くなられた後、ユダヤ人を恐れて部屋の内側に堅く鍵をかけ、閉じこもり、全く沈黙していた。ところがそこに復活の主イエスが入って来られ、言葉を語られた。そのみ言葉によって、教会としての歩みが始まるのである。
78節以下「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。バプテスマのヨハネの誕生は、神の憐みの発露であるとゼカリアは語る。確かに私たちは、未来に対して、「暗闇と死の陰に座している者」のようにこの世に置かれている。「来年のことを言えば、鬼が笑う」とは、一寸先も見通せない、人間の本質を語るものであろう。来年どころが、明日の日も分からないのである。同じ人間同士であるのに、その心を絶えずいぶかって、ただ内に籠り、蠢いているような有様ではないか。そうした人間たちを憐み、「高い所からのあけぼの光が訪れ、暗闇と死の陰に座している者を照らし、その歩みを平和の道に導く」方がおられる、というのである。神の言葉は、出来事になって私たちの間に実現する。それは先駆者ヨハネの誕生に続いて、馬小屋の飼い葉桶の中に、神のみ言葉は幼な児となって、この世に生まれ出たのである。
私たちにとっては、あやふやな未来、見通しのきかない来年であるかもしれないが、神は遥かにこの世界の行く末をご覧になって、ちゃんと神の計画を立てられ、希望を準備しておられることを、いつも心に留め置きたい。「鬼の笑い」は嘲りの笑いではない。74節「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」のである。