世界聖餐日礼拝 「何も持たずに」ヘブライ人への手紙11章17~22節、29~31節

今日は「世界聖餐日」礼拝である。主イエスが、私たちのために残してくださった恵みは、非常に数多い。「福音」と呼ばれる恵みの言葉によって、二千年を過ぎた今も、私たちは豊かに養われ、人生を歩む力を与えられている。しかし中でもとりわけすばらしい恵みは、「聖餐」であるだろう。「聖餐」もまた、主イエスの「福音」、喜ばしい音信のひとつであるが、「目に見える福音」「具体的な喜びのみ言葉」なのである。見えないものに目を注げ、と勧められる。しかし私たち人間にとって、どうしても見えないものは、頼りなく、はかなげに映る。しかし、聖餐は、目に見えるみ言葉なのである。これによってしっかりと主イエスの姿を共に見て、心に刻み、世界の教会の人々と、共に歩んで行こう、これが教会の一番の精神である。そして、「聖餐」に映し出される、主イエスの現在から、目をそらした時に、教会は共に歩むことができず、互いに仲違いを始めるのである。だから今日、この日に、教会堂に共に集められ、ひとつになって聖餐を守れる恵みを、深く感謝したい。

さて、この頃、昔の歌が突然よみがえってくることがある。昔が思い出される、というのは、年取った証拠だろうと思う。その歌とは『死んだ男の残したものは』という題名である。改めてこの歌を調べてみると、この歌は1965年、ベトナム戦争の只中の時代、作詞は谷川俊太郎、作曲は武満徹という、すごいコラボの手になる作品なのである。谷川氏が詩を書いて、武満氏の所に曲をつけてくれ、と持ってきた。すると作曲者は、その日のうちに、曲を書き上げたという。おそらく「詩の魂」に打たれたのだろう。但し題名でも分かるように、恐ろしく暗い歌である。時代の雰囲気が、非常によく伝わってくる。「死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども/他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった」。以下「死んだ女が残したものは」「死んだ子供の残したものは」「死んだ兵士の残したものは」と言葉は続けられていく。かつてのベトナム戦争、曰く「泥沼の戦争」を背景にして、そのイメージが見事に紡がれている。「他に何も残さなかった」という文言が印象的であり、この歌は一般に「反戦歌」と称されてはいるが、それを超えて、人間が一生を生きて、その生きた証に何を残せるか、という根源的な問いをも投げかけてくるように思う。どんな人生も、決して楽には生きられない、それでも自ら望んで、自分の選び取った人生なら、まだしも仕方ないとあきらめもつくだろう、自業自得だと言い聞かせることも出来るだろう。しかし自分の責任でもなく、否応なしに一方的に押し付けられるものが人生にはある。そういう不条理な人生から起こってくる問いが、生きる意味というものなのではないか。自分の願った通りに何とかうまくことが運んで、確かに苦労したかもしれないけれど、それで自分の人生には意味があった、と言うのは、あまりに薄っぺらな受け止め方ではないのか。

「他に何も残さなかった」というような人生観は、聖書の考えと決して無縁ではない。今日の聖書の箇所は、所謂「信仰者群像」とも呼びうるものであるが、聖書の有名人、著名人をすべてリストアップして、彼らの人生がどういう質のものであったかを評価していると見なされるだろう。どのような評価か、それはたったの一行、「約束されたものを手に入れませんでした」。これだけである。即ち、「自分が願い、望んだものを、生涯、手に入れることはなかった、そういう人生を歩んだ」というのである。皆さんなら、そのような人生をどう評価するだろうか。

もう少し、一般の言葉に直せば、「人生に失敗した、人生に敗れ去った」ということにもなるだろう。しかも「約束」という言葉に明らかなように、神を信じて、そこから与えられたヴィジョンとか確信とか、希望を求めて歩んだけれども、それを実際にはいただけなかった、ということである。これをもっと普通の感覚で、率直に表現するならば、「だまされた」ということであろう。コロナ禍で、なりすまし詐欺の更なる巧妙化が語られるが、先日、だまされたふりをして、見事だまし返し、犯人をつかまえたお年寄りのニュースが伝えられていた。何でもこの方は、もう過去に三回も、だまされたふりをして、詐欺犯を捕まえたそうである。しかし、聖書が問題にするのは、詐欺の犯人ではなく、人生の主、導き手である神なのである。

ただ聖書が普通でないのは、そうした失敗したり、だまされたりの人生を歩んだ人たちが、「遥かに望み見て(希望を持ち)、喜びの声を上げ」て生きた、と語ることなのである。そんなことがあるか、といぶかしく思う人があるかもしれない。いや私自身そう思う。失敗して、だまされて喜ぶ人がどこにいるのか。しかしそれにもかかわらず、聖書はそういう人生があるとはっきり断言している。「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ」。もし本当にそうであるなら、そういう人生を歩んで見たいとは思わないか。聖書の語る人生は、そのような逆説に満ちている。普通なら喜ぶことなど到底出来ないところで、喜びが生まれる、喜びを受け止めながら生きる、そういう人生があるのだ、と教えるのである。

心理学者の諸富祥彦氏はこう語っている。「この人生で起こることには、どんなことにも、意味がある。/私たちに何か、大切なことを教えてくれている。/たとえそれが、慢性の病や人間関係のもつれ、別離といった否定的な出来事であっても。あるいは一見、たんなる偶然で無意味な出来事でしかないように思えても。/なぜか私たちの注意を引きつけ、私たちに何かを言いたがっているように思える、日常生活での、ささいで曖昧な感覚。この人生、この世界での一つ一つの出来事。/そのすべては、この世界における“自分を越えた何か”の現れ。“向こうからの呼び声”がとった、具体的なかたち。/だから、そのメッセージに耳を傾けよ。/それが何を語っているか、何を私たちに教えてくれているかを、じっくりと味わい、そのメッセージを大切に受け止めながら生きてゆけ。/そして、人為を越えた人生の大きなプロセスを信じて、迷わずに行け。/それが結局、真の自己実現、真に幸福な人生に通じる道なのだから」。諸富氏はキリスト者ではないが、私たちの生きるという現実が、どんな小さなことも意味があり、そして人間を超えたもの、つまり“神”と結びついていることを語るのである。

しかし私たちは、それだけで「喜びの声を上げる」ことはできないのではないか。残念ながら諸富氏の語ることには、キリストがいないのである。自ら苦しみ、人生のうめきを共にするキリストがいない。十字架がない。私たちはいつも主イエスの十字架を見るのである。イエスもまた聖書の人々に連なり、「約束されたものを手に入れない」人生を歩まれたのである。しかしそうだけれども、その人生を「喜びの声を上げて」生きられた。その行き着くところが十字架であった。しかし、その十字架への歩みを目の当たりにして、私たちは、まことの生き方、真実の人生とは何か、を思うのである。

「船が沈むときには、ねずみが逃げ出す」と言われる。ねずみのようにいつでも逃げ出すことは出来ると思うが、主イエスが十字架を負って歩むのを遠くからでも見ると、できないなりに、その後ろに何とか従いたいと思うのである。私の小さな生き方も何とかそれに触れていたいと望むのである。

イエスの歩まれた、十字架への人生、それを自分のこととして受け止めるところで、初めて「約束されたものを手に入れませんでしたが、喜びの声を上げながら」という生き方が見えてくるだろう。それは決して空しい人生ではない。後に何か残す必要など人生にはない。ただ一日一日に備えられた、本当の命の恵みを知ることが、それに目を開かれることが喜びの根底である。その喜びを、聖書の人々の、イエスご自身の喜びを自分のものとしていただきたい。そのために、今から共に聖餐にあずかる。ここで見える福音としての主イエスの現在を、しかと確認したいと思う。