祈祷会・聖書の学び 箴言30章1~9節

30章、31章には、二人の知者の名が記され、彼らの言葉が収められている。本章は、「ヤケの子アグルの言葉」と表題に記されている。なお「託宣」と訳される言葉は「マサ」で、地名を指している可能性 が高い。その地は、アブラハムの子イシュマエルの子孫が定着した地とされており、北アラビアの砂漠に起源を持つと推定される。「アグル」という名も、イスラエル的な名ではないが、他にこの名は知られておらず、詳細は分からない。自国他国問わず、その語った言葉そのものの価値によって、名が記憶され、伝承されたというところに、イスラエルの知恵の広がりと豊かさを見ることができるのではないか。

昔「疲れを知らない子どものように」と歌詞に歌われる歌が流行した。子どもを見ていると、遊びに一心不乱で、元気に駆け回り、一時「疲れた〜」といって、おやつを飲み食いし、ひと時、休憩すると、また遊びに夢中し、外で走り回っている。この歌の通りである。ところが大人は、年がら年中、疲れている節がある。何もしないでも、どこか疲れている。休んでも疲れが取れないのである。この疲れの本質的原因を、最近は身体面からではなく、精神面から捉えようとする傾向がある。即ち、子どものように身の回りの生活体験に、驚きと喜びを感じることで、疲労は解消されるが、すべてが当たり前と感じられると、徒労や厄介に感じられるということである。

アグルの言葉の前半部分は、極めて現代的な問いを私たちに投げかけている。「神よ、わたしは疲れ果てた」。何が原因で疲れ果てたのか、詳細は不明であるが、「どうしようもない疲労」が訴えられている。さらに自分自身が、獣のように「粗野」で「野蛮」であることが告白される。ここには心身の「疲労」への対応、そして「怒り」に対してどのように自らをコントロールをすればよいのか、が意識されていると言えるだろう。ストレスの多い現代人にとって、この 2 つの事柄への対処法は、喫緊の課題だが、古代のおいても、同様に重要案件であったことが知れる。

ただ箴言では、これらの事柄もまた、「知恵」との関わりの延長で議論される。ここでの 「疲労」や「怒り」は、しばしば人生や仕事上の「徒労感」に起因するものであり、自らの手のわざに対する「空しさ」が、呼び水となっている面が強いのではないか。生きるこ とは、何も苦労なしには為されないだろうが、どれ程頑張ったとしても、最後は等しく、 人は皆、冥府への道をたどるのである。「皆、最後は死ぬのに、どうして真面目に生きなければならないのか」という問いは、今も昔も、人生への切実な問いである。そしてこれに対しての答えは、神の前でしか問うことの出来ないものである。その意味で、「神よ、わたしは疲れ果てました」という告白は、知恵ある者にしか為し得ない祈りなのではないか。

本章において興味深いのは、後半部分、15節以下の記述である。「このことが3つ、いや 4つあって」という文章形式は、旧約では、アモス書の預言等に見出されるスタイルである。 文章に躍動感と生き生きしたリズムを刻む修辞的な技術である。この文章形式は、エジプトの知恵伝承でよく目にする定式だと言われている。あるひとつのテーマについて、複数の考え方の表明は、客観的な根拠の所在を示すことにつながるだろう。福音書にも「二人 または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証される」(マタイ18章15節)、と記される通りである。「複数の証言」というものが持つ重みは、実に「知恵」の根幹に関わる事柄であろうし、それが「知恵」の持つ価値とも言えるだろう。但し、「三度、同じ嘘を耳にするなら、容易に人はその嘘を信じるだろう」ということも、常に念頭に置かねばならない だろうことは、論を待たない。

アグルの言葉に見出される「3つ、いや 4つ」という定式は、単に、文章構成上の技巧 という事にとどまらない。実際、知恵の学びの実際において、このような形式によって授業が展開されたと想像できないだろうか。つまり年長の教授者、知恵の教師が、 一方的に知恵伝承を語り、年少の学生がその言葉をそのまま復唱する、という授業展開もあるだろうが、より演習に近い方法によって、知恵の授受や訓練がなされたのではないか。 古代イスラエルの知恵の学びの実際が、「3つ、いや4つ」という形式の裏側に反映されているように思われる。つまり、教授者が知恵の訓練のために、適切だと思われるテーマを提示する。すると学生がその主題に適切だと思われる答えを、口々に答えてゆく。自分が考え、又他人の考え を聞くことで、それによって自然と、問われた事柄に対しての理解と認識が深まるという 次第である。

15~16節では、「限りないもの、限度がないもの」とは何か、が問われている。「決して十分だとは言わない人」とあるが、燃え上がった火に、薪を投げ込み続ければ、火は消えることがない、という意味だろうが、同時に、「火」が人間の欲望を指す「隠喩」だと理解すれば、ものを持てば持つほど、人間の欲望は沸き起こり、消えることがない、 という人生の知恵を語る者と理解できるだろう。

18~19 節では「驚くべきこと、知りえぬこと」が問われているが、これは「世の中で最 も奇妙なこと」という問いであろう。この中で最後の文言「男がおとめに向かう道」という答えは秀逸である。男女の出会いほど、不思議なものは確かにないだろう。他の学生が、 極めて真面目な答えを口にするのを見て、ひねりを加えた知恵の言葉を口にし、「どや顔」 の学生の表情が想像されるのである。

21~23 節では「この世で最も恐ろしいことは何か」という問いである。この国では、か つては「地震、雷、火事、親父」と語られた。イスラエル人にとっての脅威が何であった のか、しばし味わいたいものである。

29~30 節では「堂々とした者」が問われているが、その中に「だれにも手向かいさせな い王」と語られるが、「皆の前を威張って歩く王」と訳す方が、より適切だろう。ここには 「裸の王様」というようなアイロニーが込められている。ともあれ、こうした知恵の学びは、宮廷の知恵の学校だけでなされたものではなく、村や町の構成員の会合で成された学びでもあっただろう。ナザレのイエスの知恵の学びも、そういう中でなされたものであると、想像できるのではないか。知恵の学びは、庶民にとっても大きな娯楽であったはずである。